「お前は復興の旗を振れ」能登・数馬酒造が、被災した仲間たちからかけられた言葉
2024年1月1日、最大震度7の揺れが能登を襲った。創業150年を超える数馬酒造もまた、蔵の半壊や仕込み中の醪(もろみ)が大量に流出するなど、甚大な被害に見舞われた。
絶望的な状況の中、社長の数馬嘉一郎さんが翌日の日記に記したのは、嘆きではなく「感謝」の言葉だった。
「残ってくれた建物たちに、そしてそれを残してくれたご先祖様に深く感謝」
その感謝を胸に、酒造り再開へと歩み出した数馬さんを支えたのは、県内外の酒蔵を営む仲間たち、そして被災地で共に生きる人々の存在だった。
「復興の旗を振れ」と背中を押してくれた地域の仲間たち。そして何より、「生活基盤が整っていない状態でも通ってくれた社員のみなさんがあってこそ、今がある」と、数馬さんは言う。
能登半島地震の発生から約2年。失ったものを数えるのではなく、今あるものに感謝し、周りの人々に支えられながら能登の未来を描いてきた数馬酒造。その歩みに迫った。
「残ってくれた建物たちに、残してくれたご先祖様に感謝」地震発生の翌日に描いた、酒造り再開の絵図
── 能登半島地震による酒蔵への被害はどういったものだったのでしょうか?
製造に関わる6棟のうち、4棟の建て替えが必要なほど被害を受けました。仕込み中のタンクからは醪(もろみ)がこぼれ出し、保管していた商品も破損するなど、壊滅的な被害でした。海沿いにあるため、津波による汚泥の流入もありました。
弊社は全量能登産の米を使っているため、リスク分散として、米以外の原料からつくるリキュールを山間部で、醤油も内陸部で製造していたのですが、今回の地震ではそれらすべての拠点が被災しました。リキュールのタンクは倒れ、醤油も床一面に飛び散り、資材倉庫も含めてあらゆる場所がダメージを受けた状況でした。
── 甚大な被害を受けた中、数馬さんはどのように動いたのでしょうか?
地震発生の1日は家族と一緒に避難して、避難所から社員のみなさんの安否確認をしました。その間、余震もあったのですが、やっぱりどうしても酒蔵の様子が気になって。翌日の2日には、社員でもある弟と一緒に、蔵を見に行ったんです。
このときに、被害の状況だけでなく、「何が残ったのか」を同時に把握することを意識しました。それが、大きかった。残ったものに目を向けたことによって、「こうやったら酒造りを再開できるかもしれない」というイメージをつかんで帰ることができたんです。
8日までは休業とし、新年の初出社は9日からとしたのですが、その数日間は、年間を通して酒造りをされている酒蔵さんや、過去に震災を経験された酒蔵さんなどにヒアリングをさせていただきました。酒造りを再開するうえで、これまでやったことのなかった「夏場の酒造り(日本酒づくりは寒い時期が一般的)」に踏み出す可能性があったからです。それを踏まえて、許容できる設備投資額を見積もり、設備を整える予定を立てていました。
── それが地震発生からわずか一週間のこと。冷静に、迅速に、初動の対応をされたのですね。
僕がこういうふうに動けたのは、地震が発生して真っ先にとある経営の本を思い出して、「これに基づいて復活していこう」と気持ちを切り替えることができたからなんです。『エフェクチュエーション』という本で、「予測不能な状況下で成果を出すためには、『残った資源に目を向けること』や『自分がコントロール可能な要素に集中すること』が大切」といったことが書かれていました。
それを思い出した元日のうちにはもう、「諦める」という言葉は、自分にはなかった。諦めないとなるともう、現状をチャンスに変えるしかない。日頃からつけている日記にも、1月2日には、「残ってくれた建物たちに、そしてそれを残してくれたご先祖様に深く感謝」と書いたんです。
「酒造りが第一だよ」東日本大震災を経験した社長の言葉を胸に、"やらないこと"を徹底
── そこからどのように、酒造り再開までの道のりを歩んでこられたのでしょうか。
1月17日には、県内外の酒蔵の方々が、まだ道路状況もわからない中、駆けつけてくださいました。
タンクに取り残された発酵中の醪を、みなさんがホースを垂らしてタンクローリーで汲み上げてくださった。搬出された醪は、自社製品を他社で製造する委託醸造という形で商品化し、「Saved by(セーブドバイ)シリーズ」という名前で販売することができました。本当に、みなさまのおかげでできたお酒です。
そのとき、東日本大震災を経験された宮城県の酒蔵の社長様からいただいたアドバイスを、ずっと頼りにしてきました。ひとつは、「酒造りが第一だよ」という言葉。もうひとつが、「断水がいつ終わるのか、社員さんもいつ全員が揃うのか、わからないかもしれないけど、再開日は自分で決めるんだぞ」という言葉。
このアドバイスを受けたことで、「やるべきことを優先するために、やらないことを決めないといけない」と思い、それを徹底することにしたんです。
── 徹底したこととは?
1つ目は今まで以上に厳しい視点で品質を評価するということ。2つ目は、目先の売り上げに囚われないこと。3つ目は、フェアへの出店やイベント出演のオファーをお受けしない、ということ。ありがたいことにたくさんお声がけをいただいたのですが、それらにかける時間や人手があるなら、そのすべてを酒造りに注ぎたい、そうでなければ再開はできないと思ったのです。
そうやって「やらないと決めたこと」を守りながら、建物の修繕、掃除、新しい設備の導入などを進め、酒造り再開のために動いていきました。
酒造り再開日を決めたことによって、どれくらいのお米が自分たちの力では日本酒に出来ないかの目処がたったため、お米をお渡しして酒造りを代行していただく「委託醸造」にも踏み切りました。またも、同業の方々に助けていただいたんです。僕たちが酒造りに使う能登産のお米は、すべて契約農家さんから仕入れています。決めた日時で酒造りを再開できたとしても、一定のお米は次の酒造りまで持ち越してしまい、そうなると来期の発注量が減って農家さんたちに迷惑をかけてしまうことになる。そんな背景からでした。
自社ブランドである「竹葉(ちくは)」を自分たちで醸造できないことに葛藤もありましたが、能登の農家さんと共にあるんだという想いから、他社の力をお借りして全量を日本酒にすることができました。実際に断水が解消されたのは3月11日。酒造りが再開できたのは、4月1日からでした。
「復興の旗を振れ」酒造りへと走らせてくれた、能登の仲間たちの存在
── 初動の対応もですが、酒造り再開に至るまで約3ヶ月というのも、脅威的なスピードだなと感じます。
スピードを緩めることなく走り続けられたのは、地域の仲間の存在が大きかったと思っています。実は僕、立ち止まりそうなときがあったんです。
周りを見れば、炊き出しをしていたり、地域の壊れた屋根を修復に行ったりと、支援活動をしている人たちの姿がすごく目に入ってくるんです。そんな中、自分はいかに自社事業を早めに再開するかと考えている。「人として、それでいいのか」と葛藤していた時期がありました。
── その迷いから、どうやって吹っ切れたのでしょうか。
その引け目みたいなものを、地域の経営者仲間に話したときに、みんながこう言ったんです。「お前は、先に走るのが役目だろ」って。極端に言うと、「屋根に上がってブルーシートをかけたりとか、救出するための動きは、お前は役に立たん」とまで言われました。「向いてない、むしろ危ない」って(笑)。
「俺たちは今は会社のことができなさそうだから、何かできないかと思ってこっちをやっとる。もし会社が大丈夫やったら、俺たちだって自分の会社のことをやっとるかもしれん。だから、できるなら。走れ」と、そんなふうに背中を押されたんです。
それでも、本当にいいのかという思いは残っていました。でも、みんなが口を揃えて言うんです。数馬酒造は、復興の旗を振らんとダメやろうって。「復興の旗を振れ」。みんながこの言葉を、僕に投げかけてくれました。
それはきっと、数馬酒造が事業再開への動きを見せることで、それが地域の復興の兆しになると期待してくれているんだということ。僕としてはそのように受け止め、引け目を感じていたりもしたけど、「俺、走るわ」って、腹を括ることができました。だから、僕自身もですけど、数馬酒造が立ち止まることなく進み続けられたのは、本当に能登の仲間たちのおかげなんです。
「醸しのものづくり」を超えて。震災を機に問い直した酒蔵の存在意義
── 震災以降、数馬酒造の酒造りや、企業としてのあり方にどんな変化がありましたか?
あらゆることが変わりましたね。まず、震災ですべての事業が停止してしまったけれど、一旦ぜんぶ停止しているからこそ、「これまでのやり方をゼロから見直して『理想の状態』で業務を再開するチャンスだ」と捉えたんです。部分最適ではなく、事業ごとに業務の質を高められるチャンスだと捉えて、商品ラインナップ、仕込みスケジュール......、あらゆる工程を見直しました。
なかでも大きかったのは、酒造りにおいてずっと目指してきた、社員の働き方の向上。それまでも勤務時間を1日7.5時間にするなど、無理のない酒造りの環境を整えようとしてきましたが、夏場にも酒造りができるための設備投資をしたことで仕込み期間を約3ヶ月ほど延ばすことができ、それによって勤務時間を目標の7時間に、休みも完全週休2日制にすることができたんです。
そういったあらゆる改善をしつつ、ミッションやビジョンも変更しました。
── なぜ変更に至ったのでしょうか。
数馬酒造のミッションはこれまで、【「醸しのものづくり」で、能登の魅力を高める。】でした。「醸しのものづくり」は、もちろんこれからも大切にしていきたいこと。だけど震災を経て、これから100年、200年とお酒造りを続けていくことを考えたときに、「酒造りの環境だけでなく、能登の環境ごと守っていけるような会社にならないとダメなんだ」と強く思った。それは、社員のみなさんのためにも。
今回のように暮らしそのものが危ぶまれて、「職場以外でも、『この能登に生まれてよかった』『能登に残ってよかった』と思える環境づくりをしていかなければ」と強く思ったんです。農家さんや、僕たちを助けてくださった他社の酒蔵のみなさん、このような環境でも能登に残って働いてくれる社員のみなさんによって、気づかされたとも言えます。
その想いを各部署の責任者に共有して、考えた新たなミッションが、【酒蔵の領域を超えた挑戦で、能登の魅力を高める】です。
能登に残った選択を、「正解だった」と思える未来をつくりたい
── はじめての夏場の酒造りに委託醸造、ミッションやビジョンの再構築と、数馬酒造の復興の歩みは、新たなミッションの通り、「挑戦」と共にあったのですね。
2024年はまさに、「試された年」だったなと思います。予想していなかった大災害で、今まで積み上げてきたことをどのように活かせるかが試されたと同時に、どのように未来に向かって歩んでいくかも試されました。商品数を絞り込みながらも、夏場に仕込んだお酒がお客様に納得いただける品質をお届けできるかなど、同時に多くのことに挑戦した年でした。それが「いける」とわかって本格導入したのが、この2025年です。なので2025年は、ある意味で、新しい指針に基づいてスタートを切れた一年でもあったと思います。
また、2025年は地震によってダメージを受けた建物2棟を解体し、それによって貯蔵スペースが限られるなど、より制限のある状況での酒造りとなりました。ですが、そのような中でも次世代により地域性の高い日本酒を残していきたいと、解体する前の建物から酵母や乳酸菌を採取し、自社酵母・乳酸を活用した試験醸造も進めているところです。次の未来に向けての想いも強めた年だったと感じています。
── 次の未来に向けて、描いていることを教えてください。
まだ具体的な新規事業を進めているわけではありませんが、絶対に必要だと思っているのは、地域に「事業の数を増やすこと」です。
能登の復興のためにも、ここに残ってよかったと思ってもらうためにも、エンタメや飲食店など、人の暮らしを豊かにするような事業の数がもっと必要です。そのために、自社の経営だけでなく、地域で事業を運営できる人を増やすための勉強会を開いたり、起業家の壁打ち相手になったりと、事業を運営できる人を育てていくような動きも始めています。
僕に見えている能登の姿というのは、ほんの一部だと思います。ですが、そんな中でも、能登に自分の意思で残った人たちや、新しく移り住むことを選んだ人たちは、決して不幸ではないというのは、たしかに感じていることです。
不便な状況は、まだまだたくさんあります。けれど、みんなその中で楽しみや豊かさに目を向け、手を取り合って生きています。能登にいる人たちは、本当に能登のことが好きな人たちなんです。そういった方々に僕ができることは、繰り返しになりますが、ときには酒蔵の枠組みをも超えて、とにかく行動を起こすこと。それに尽きると思っています。
ありがたいことに、震災以降も弊社の社員数は増えていて、こういう状況でも一緒に酒造りをしたいと思ってくださる方々に本当に感謝しています。何より、生活基盤が整っていない状態でも通ってくれた社員のみなさんの存在があってこそ、今がある。その選択がこの先、正解だったと思ってもらえるような能登の未来をつくっていきたい。そう強く思っています。
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取材・文
小山内彩希
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編集
大川卓也
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