「震災があったから今の私がいる」佐々木莉佳子と父が語る故郷と歩んだ15年の軌跡
2025年9月、抜けるような青空の下、ロードバイクに乗った人々が次々とスタートゲートをくぐっていく。東日本大震災の復興支援を目的とした自転車イベント「ツール・ド・東北 2025」が開催された。そのスターターとして、ひときわ明るい笑顔で手を振る女性がいた。2024年6月にアイドルグループ「アンジュルム」を卒業した佐々木莉佳子さんだ。
宮城県気仙沼市で生まれ育った彼女の原点には、2011年の東日本大震災がある。そして、その壮絶な体験から今日に至るまでの道のりのかたわらには、常に見守り、時には厳しくも愛のある言葉で彼女を導いてきた父の存在があった。(写真:鈴木省一/取材・文:島田龍男)
「笑顔を取り戻したい」父の願いと決断
「私は、東日本大震災をきっかけにアイドルになりました」
2011年3月11日、当時小学3年生だった佐々木さんの日常は一転した。授業中に震災が発生。校庭に避難した後、迎えに来た両親と高台に走って逃げた。津波に家も、学校も飲み込まれた。壮絶な体験は、天真爛漫だった少女から笑顔を奪った。
「年の離れた末っ子で、本当に甘やかして育てたんです。いつもみんなの真ん中にいるような子でしたから」
父・利重さんは、ふさぎ込む娘の姿に心を痛めていた。娘を心配していたある日、地元で結成されるご当地アイドルグループ「SCK45(後のSCK GIRLS)」のメンバー募集を知る。気仙沼の子どもの笑顔を取り戻すためというコンセプトに「これだ」と直感した。
「とにかく、震災前のあの笑顔に戻ってほしい。その一心でした」
利重さんの脳裏には、ある記憶が蘇っていた。
「小学校3年生くらいの時に、ダンスゲームを買ってあげたんです。そしたら覚えるのが早いし、うまくて。才能があるのではと思っていたんです」
利重さんは、娘が持つ天性の輝きを信じ、内緒でオーディションに応募した。それは、娘の未来を想う父としての、切なる願いが込められた行動だった。
佐々木さんはどう受け止めたのか。
「最初は驚きました。でも、その驚きはほんの数秒で、すぐに、これからどうなるんだろうって、期待とわくわくでいっぱいになりました」
ステージに立つことは、彼女が本来持っていた輝きを取り戻すきっかけとなった。
「復興を利用するな」逆境を原動力に
「SCK GIRLS」としての活動は、決して平坦なものではなかった。「復興をネタにして有名になろうとするな」という心ない声もあったという。だが、彼女はそれを逆に原動力へと変えた。「自分たちの活動は復興につながる」という強い意志を持ち、イベントで東京や仙台に呼ばれるたび「気仙沼を知ってもらう機会だ」と、常に全力でステージに立った。
「世界にとって悲しい出来事を機に私はアイドルになったので、どんなことも、マイナスだけじゃなくて、プラスの面があると信じています」
その信念は、この頃すでに培われていた。
やがて佐々木さんは、気仙沼という枠を越えて羽ばたいていく。「ハロー!プロジェクト」の研修生となり、小学校5年生で上京。利重さんは「今いる場所が世界の中心ではないから、外をどんどん見てほしい」と、迷いなく娘の背中を押した。
二人三脚で目指した「宇宙一」
佐々木さんは、アイドルグループ「スマイレージ(後のアンジュルム)」のメンバーとして、その才能を開花させる。そんな彼女が掲げた目標は、「宇宙一のトップアイドル」だった。
「小さい頃の私にとって『世界』って限界がある気がして。それより大きな規模の存在になりたいと思ったら、『宇宙』という言葉が出てきたんです」
太陽のような明るさと、見る人を惹きつけるパワフルなダンス。その成長を誰よりも喜び、同時に誰よりも鋭い視線で見守っていたのが利重さんだ。
「この子は『血で踊るんだな』とアマチュア時代から感じていました。他のグループと一緒に出るライブでもなんでも、小学生の莉佳子が『隙あれば食ってやるぞ』ぐらいの気迫で行くわけです。田舎から出てきたアイドルなんて誰も期待していないのに、ライブが始まると会場の雰囲気が変わる。自分の娘ながら、末恐ろしい子だなと思いましたね」
しかし、順風満帆に見えたキャリアの中で、親子は一度、真正面からぶつかる。現状に満足し、無意識のうちにパフォーマンスに甘えが出ていた時期だった。その変化を、誰よりも鋭く見抜いていたのが利重さんだった。
2017年、武道館公演の後。利重さんは佐々木さんにこう告げた。
「同期の室田(瑞希)に負けてる」
当時の佐々木さんからは、かつての「隙あらば食ってやるぞ」という気迫が消え、どこか遠慮しているように見えたからだ。
「最初は『ふざけんじゃねえ』って思いました。頑張ってるのにって。でも、冷静になって自分のパフォーマンスを見返したら、確かに父の言う通りだと思えて。そんな自分が悔しかった」
父への絶対的な信頼があったからこそ、彼女はその言葉を自分を変えるための燃料にした。
「そこから自分のパフォーマンスを研究して、研究し抜いた結果『佐々木莉佳子』というジャンルができたんです」
人生の岐路と父の言葉
2024年6月、アイドルとして絶頂期にあった彼女は、卒業を決断する。
「今が一番あぶらがのってる。一番かっこいいじゃん、と気づいたんです。だから、一番かっこいいときに辞めようと。後悔は全くありません」
しかし、グループという守られた場所から一人になった途端、人生で初めてと言えるほど自信をなくし「どういう顔でファンの前に出ればいいか分からなかった」時期もあったという。そんな彼女を支えたのもまた、父の言葉だった。
「卒業の時に『当たって砕けろ。人生一度きりだから』と言ってもらえたのが支えでした。落ちたということは、あとは上がっていくだけ。以前は新しい目標に対して『どうしたら実現できるのか?』と行き先がぼんやりとしていた状況を楽しめなかったんですけど、今は『どうすれば形にできるかな?』と目標に対する過程を模索することがすごく楽しい。その変化が一番大きいですね」
利重さんは、自身の親に厳しく押さえつけられて育った経験から、我が子には違う接し方をしようと決めていたという。
「自分の子供でありながら、一人の人間として尊重してきました。上から押さえつけるんじゃなくて、間違った方向に行かないようにだけ教えてあげて『決めるのは自分だよ』と。そういう向き合い方をずっと大事にしてきたんです」
オーディションへの応募という最初の一歩から、成長を促すための厳しい一言、そして新たな世界へ旅立つ娘へのエールまで。佐々木莉佳子の人生の岐路には、いつも父の言葉があった。それは、子を信じ、その自立を力強く後押しする親子の絆の姿だった。
アイドル卒業、そして再び見上げる故郷の空
「事務所に入ってから、ずっと気仙沼でお仕事がしたいと思っていた」
佐々木さんの想いは、グループ卒業ツアーの気仙沼公演という形で結実する。また、彼女の活動は、多くのファンが気仙沼を訪れるという人の流れを生んだ。
「ファンの皆さんは、お父さんのお店に定期的に足を運んでくださったり。私が生まれた場所を、ファンの方が愛してくれる。この仕事だから形になった特別なことです」
卒業から1年あまり。彼女は今「みなと気仙沼大使」や「みやぎ絆大使」として、故郷と関わる活動に力を入れている。久しぶりに帰郷した際、夜中にふと見上げた星空の美しさに、改めて気づかされたという。
「東京では結構下を向いて歩いていることが多いんですけど、気仙沼に来れば空を見上げたくなるし、空気をたくさん吸いたくなるんです」
彼女の記憶には、震災前の故郷の風景が鮮明に残っている。
「昔は観光バスがたくさん来て、旅行者の方々で賑わっていた。その光景を今でも覚えています」
あの日ですべてが変わってしまったが、復興工事を経て、街は新たな姿に生まれ変わった。三陸沿岸道路の開通などにより、アクセスも向上している。
「震災前の形に丸々戻すことはできないかもしれない。でも、震災をきっかけに新しくできた場所もある。機会があれば、ぜひ足を運んでいただけたら嬉しい」
震災から15年、未来へのまなざし
「東日本大震災がきっかけで私はアイドルになったんですけど、あの経験があったからこそ今の自分がいるし、皆さんに発信できる立場にいさせていただいている」
彼女の活動は、多くのファンが気仙沼を訪れる流れを生んだ。
「私が生まれた場所を、ファンの方が愛してくれる。この仕事だから形になった特別なことです」
震災という悲しい出来事は、彼女を通して、温かい人の繋がりへと変わった。
「これからは、アイドルキラキラの先にある新しい景色を見せたい。『いい意味での裏切り方』をして、新しい私を好きにさせたい」
ただ応援されるだけではなく、ファンの気持ちを「包み込む」ような存在になること。震災の痛みを知り、多くの愛を受けて育った彼女だからこそ辿り着いた考えだ。
「人生はずっと挑戦。もっと先を見て、自分の可能性に賭けてほしい」
父・利重さんは、これからも娘の挑戦を見守り続ける。


