国内最大級の産廃事件。傷ついた''ごみの島''にアートがもたらした変化と、変わらぬ価値
瀬戸内海に浮かぶ、外周約20km・人口約760人ほどの小さな島「豊島(てしま)」。
湧水が豊富で、古くから稲作や農業が営まれてきた。近年では瀬戸内国際芸術祭の舞台となり、会期中には14万人ほどの人が訪れる「芸術の島」としても有名である。
現在の穏やかな姿からはあまり想像がつかないが、豊島には、かつて「ごみの島」と呼ばれた歴史もある。1970年代から業者によって産業廃棄物が91万トン以上も違法に投棄され、住民たちは悪臭や健康被害にも苦しめられた。
不法投棄が明るみになったあと、産廃業者の処理場設置を認めた香川県を地元住民が訴える。国内でも最大級かつ今までにない産廃事件となり、訴訟は長期化。香川県庁前で抗議活動を行なったり、各地で勉強会を開催したりするなど住民たちの草の根的な活動が実を結び、2000年にようやく公害調停が成立。
それから22年。産廃自体は撤去されたものの、環境に及ぼした影響は大きく、島の原状を回復する作業は今なお続いているという。
瀬戸内海は、かつて国内外を繋ぐ重要な航路であり、人々の暮らしにもさまざまな恵みをもたらしてきた。しかし近代以降、社会が発展し、都市部への人口集中が進行。瀬戸内海の島々では過疎や高齢化に悩まされてきた。
2010年に瀬戸内国際芸術祭がはじまった背景には、そうした「陸地で多くの価値を生み出すために、海が忘れ去られる」状況への危機感があったという。アートや建築を通じて島のおじいちゃん、おばあちゃんに誇りを取り戻してもらい、未来への展望を持てる地域へと変える。そして、芸術祭を継続することで、地域の課題と向き合っていく。
そうした思いは、芸術祭の「海の復権」というテーマに込められている。産廃事件により島の自然が損なわれ、風評被害に苦しめられていた豊島が「復権」の舞台の一つであることは、必然と言える。
3年に一度開催される瀬戸内国際芸術祭は、今年で5回目を迎えた。産廃事件後の豊島には、芸術祭によってどのような変化が生まれているのだろう? その姿を確かめるため、早春の豊島を訪れた。
穏やかな島に、産廃がやってきた
最初に向かったのは、島の北西部に位置する「家浦(いえうら)」集落。豊島で生まれ育った清水里子さんは、産廃事件が起きた当時をこう振り返る。
「私たちは、あれにすごく苦しめられましたね。産廃の処分場があったのは島の西の端なんですけど、夕方になると、産廃を野焼きする煙が海岸づたいに集落まで漂ってくるんです。
それがもう、頭にキーンと突き刺さるような、すごく嫌な臭いでね。外にいたらタオルで口元を縛らないと苦しいくらい。今でも、ナイロンとかを燃やす臭いを嗅ぐと思い出します。化学物質を燃やす臭いなんでしょうね。
臭いも大変だったんだけど、うちの下の子は野焼きがはじまったら咳をするようになってしまって。5歳まで病院へ行ったことがないくらい元気な子だったから、おかしいなと思ってたら、喘息になってしまってたの。当時、この集落に子どもは24〜5人いたんですけど、そのうち5〜6人は同じような喘息にかかってましたよ。
豊島は、もともと空気も水もすごくきれいな島なんです。私は18歳のときに大阪で就職したんだけれど、当時の大阪はスモッグがひどくて。それで体を壊してしまったんだけど、豊島へ戻ったらすっかり治ったんですよ。こんなに良い環境に囲まれている島で、まさかあんなことが起きるとは思ってもいませんでした」(清水さん)
事件の発端は、業者による産業廃棄物処分場計画だった。1965年ごろから島の土地を所有し、山の土砂を採取していた業者が、その跡地に産廃処分場の設置を計画。住民たちは反対運動を行なったものの、「木屑や食品汚泥など、無害な産業廃棄物を利用してミミズの養殖を行う」という業者の説明に対し、香川県が1978年に事業許可を出した。
しかし、その説明は実態とは異なる虚偽の内容だった。県の事業許可を受けて業者がはじめたのは、廃油や製油汚泥、廃タイヤやシュレッダーダストなど環境に有害な物質を含む産業廃棄物の処理。現場では産廃を燃やす「野焼き」が行われ、清水さんの子どものような健康被害も報告された。
「息子は咳が出て眠れなかったり、体を動かす行事のたびにゼイゼイ言ったりしてね。苦しさのあまり『僕、死んだほうがマシだな』って言うくらいで......。でも病院へ行っても、因果関係がはっきりしないからと、野焼きのせいとは診断されなくて。高校生の頃にその野焼きが止まったら、息子の咳もピタッと止まったんですけどね」(清水さん)
相次ぐ住民の被害の声を受け、やっと事態は動きはじめる。1990年になると、兵庫県警が「ミミズの養殖を騙った産廃の不法投棄」容疑で業者を摘発。翌年には逮捕・起訴され、12年間も続いた産廃の搬入や野焼き、埋め立てがやっと止まることとなる。
住民たちは「廃棄物対策豊島住民会議」を発足させ、業者に事業許可を出した県の責任を認めさせ、島の原状回復を求める公害調停を申請。しかし、国内史上、最大規模となった産廃事件の調停は長期化した。
全国的な報道も過熱し、今度は風評被害が住民たちを苦しめることとなる。現在、島でいちご農家を営む藤崎盛清さんは語る。
「昔、豊島は『ミルクの島』と呼ばれていたんです。この辺りの島には珍しく酪農が盛んで、牛乳がたくさんあったから、戦後には『神愛館』という乳児院もできた。その後は老人ホームや障害者施設も作られたので、『福祉の島』とも呼ばれた。その後についた名前が、『ごみの島』です。
産廃事件が全国でニュースになってから、農漁業は影響を受けたね。『豊島』の名前で出荷できなくなったところも多かった。みかん農家の人は、『豊島みかん』だと売れないから名前を変えてくれと取扱い先から言われたそうです。だから、仕方なく隣の『小豆島みかん』と名前を変えて売ったりね。
産廃処理場の話が出たとき、我々は最初から反対していたんだけど、結局『ミミズ養殖』だとか『金属回収業』とか業者に言いくるめられて、県の許可が下りて......止められなかった。当時の島の光景を覚えてますよ。産廃を船で持って来て、家浦の港でトラックに積み替えて。道いっぱいある10トン車が、そこのけそこのけと通ってたね」(藤崎さん)
本来なら適切な設備で処理されるべき産廃が、コストを優先した粗雑な処理によって、島の自然や住民の健康に被害を与えた。そうした産廃の大半は、都市部で出たごみだ。都市の豊かさのツケが遠く離れた「豊かな島」に押し付けられたのは、なんという皮肉だろう。
芸術祭が、島にもたらした見えない変化
瀬戸内国際芸術祭がはじまったのは2010年。直島などで文化活動を展開してきた福武財団と香川県が、新潟県で地域型芸術祭「大地の芸術祭」を手掛けていた北川フラムさんをディレクターに招いてスタートした。
初年度は「アートと海を巡る百日間の冒険」をサブタイトルとし、夏会期のみで開催。直島、豊島、女木島、男木島、小豆島、大島、犬島の7つの島と高松を舞台に、18の国と地域のアーティスト75組が招かれた。過疎や高齢化が進む島の活性化を目指し、浜や港、棚田や山のほか、廃校や廃屋などに作品が展示されたほか、伝統芸能や演劇、サーカスなども繰り広げられた。
2回目となる2013年からは春・夏・秋と会期を拡大し、アーティストや作品数、来場者数も回を重ねるごとに増加。会場も7つの島から、西の島(本島、高見島、粟島、伊吹島)を加えた12の島に拡大した。前回の2019年には、計107日間の期間中に合計118万人が訪れた。豊島も人気の会場のひとつで、2019年には14万3373人の来場者を記録。海外からも注目されるイベントとなり、インバウンドの来場者も多い。
産廃事件でダメージを受けた島に観光客が増加し、経済効果とともに新たなイメージに塗り変える......。もちろん、そうした側面もあるに違いないが、豊島の人々の話を聞いていると、もっと別の、目には見えづらい変化を感じた。
例えば、豊島に住む田中昌子(しょうこ)さんは次のように語る。
「私は豊島で生まれ育ったけど、産廃の事件が起きる前から、観光客はほとんど来ないところだったの。穏やかな島だったから、人が集まるなんて、井戸端会議くらいかな。私の小さい頃は洗濯場があったから、そこに大勢集まってお喋りしてね。
芸術祭が来るって聞いた時も、最初はそんなに皆、関心はなかったんじゃないかな(笑)。というより、あんまりイメージが湧かなくて。外の人が来て大丈夫かな?と心配する気持ちも正直ありましたよ。
でも、いざ始まってみたらびっくりしたの。来る人来る人、みんな挨拶するし、ごみも捨てないし。芸術が好きな人はこんなに礼儀正しいのかって感心しましたね」(田中さん)
田中さんは2011年から、豊島の「島キッチン」の厨房で働いている。島キッチンとは、2010年の瀬戸内国際芸術祭で、建築家の安部良さんが「食とアート」で人々を繋ぐ出会いの場として設計した場所だ。
「ここで働いてると、カウンターに座るお客さんとお喋りできるのが楽しくてね。島キッチンは『食とアート』がテーマだから、カウンターの内側で料理するのも作品の一部みたいなもの。だからキャストだと思って頑張ってますよ。
コロナ以前は、道を歩いてる観光客の人を、車に乗せてあげたりもしてたくらい(笑)。私もお喋りが好きだから、外の人と喋るのがすごく楽しいの」(田中さん)
瀬戸芸の特筆すべき特徴が、島の住人と、外から訪れる人の交流だ。会期は3年に一回、のべ100日ほど。しかし会期ではない残りの約1100日の間にも、「お祭り」に向けて地域との関係性を築いていくため、様々な積み重ねが行われている。
例えば、島キッチンのテラスでは、2014年から毎月1回「島のお誕生会」が開催され、誕生月を迎えた住民の方々や来島者を、皆で一緒にお祝いする。誰もが自由に参加できる会には、のべ300人以上をお祝いしてきたという。普段はあまり外に出る機会のない高齢の方も、この会には参加し、子どもたちや島の外から来た人たちとの交流を楽しんでいる。
島の生活を寿(ことほ)ぐ、内と外の交流
瀬戸内国際芸術祭総合ディレクターの北川フラムさんは、共著で次のように書いている。
「瀬戸内国際芸術祭が本来目的とするものは、島の生活を寿ごう、おじいちゃん、おばあちゃんたちに元気になってもらおうということですから、アートや建築を通して島の民俗的なことや歴史、生活を明らかにし、外に向かって発信する仕掛けでありたいと考えています。
(『直島から瀬戸内国際芸術祭へー美術が地域を変えた』福武總一郎・北川フラム共著より)」
島に存在している暮らしや文化そのものを尊重し、その素晴らしさを発信することが目的であり、アート作品や建築はその媒介。2010年に豊島で出品された、青木野枝さんの作品も、その一例だ。
「空の粒子/唐櫃」と名付けられた鉄の彫刻は、貯水タンクを囲むように設置され、空の粒子が舞うかのような、円形の輪がいくつも浮かんでいる。
貯水タンクに寝そべって上を向くと、その先に伸びた鉄の輪から、豊かに茂った木々の緑と、その向こうの空がかすかに透けて見える。そして、下からは貯水タンクに流れ込む水の音が聴こえ、豊島が「水の島」だということを感じさせてくれる。
また、すぐ脇には古くから島の生活を支え、地域の社交場でもあった「唐櫃の清水」があり、かつてのコミュニティに賑わいを取り戻すテーマも作品に込められているのだという。
地域にとって大切な場所に作品を展示するためには、住民からの信用も欠かせないはずだ。青木さんと交流が深い住民・曽我三喜夫さんからの話は、そのことを十分、裏付けてくれる。
「自分はいわば、野枝ファンやね(笑)。青木さんが鉄を使った作品をつくる方だから、豊島で展示をすることになったときに、鉄鋼の仕事をしてる私のところへ話がきたの。現地で鉄を加工する道具が必要だから、それを貸してほしいってことでね。
アーティストさんを邪魔せんように、道具を貸して作業風景を見てたんやけど、小柄やのに大きな作品をつくってる青木さんの姿が格好よかった。それで鉄の扱い方とか、色々話をするようになったんやけど、すごく気さくでね。もう、すっかりファンになってしまった。
青木さんは、芸術祭の会期以外も島に来てくれるんですよ。夏に「唐櫃の清水」でスイカを冷やして配ったり、お大師さんのお祭りや、例大祭にも参加してくれてね。みんなから野枝さん、野枝ちゃんと呼ばれてるよ。今年は小豆島で展示をするらしいから、僕が会いに行く予定です。来てもらったら、作品をつくる時間がなくなっちゃうからね」(曽我さん)
芸術祭をきっかけに人が動き、島の内と外の交流が生まれる。曽我さんが青木さんとの話を熱っぽく語るように、血の通った交流は、島の人々に活力を与えている。
豊島と出合い、人生が動いた人も
芸術祭をきっかけに、移住者となった人も多い。島キッチンでシェフを務める上野孝之さんも、芸術祭後に移住した一人だ。
「生まれは神奈川で、東京でずっと料理の仕事をしてました。新婚旅行で2017年に豊島へ初めて来たんですけど、湧水のところからの景色を見た時に『自分で店を出すなら、ここだ』と思ったんです。
僕はもともと、芸術祭とかアートには興味がなかったんですけどね(笑)。最初は小豆島と直島に行く予定で、豊島に寄ったのは、たまたま時間が空いたからだったんです。そのとき、島キッチンでご飯も食べたのかな。当時は、自分の生活について考えていた時期で、色んな土地を回ってもしっくりこなかったんだけど、なぜか『ここだ』と思えたんです。
その後、何回か島に通って研修期間を経て、2019年に移住しました。東京にいる時とは、生活も変わりましたね。朝起きて散歩するなんて、東京の生活ではなかった。都会から芸術祭を見に来て、何度も豊島に通うようになる人も多いですよ。『癒される』『仕事の疲れがとれる』って皆さん言いますね」(上野さん)
島キッチンの料理に使われる素材は、豊島産もしくは香川産のものばかり。島の畑でとれた野菜も多く、冒頭で紹介した清水さんのつくった野菜もここで使われている。
「入ってくる野菜は季節で変わります。ないものもあるので、メニューを立てるのは結構難しいですけど、面白いですよ。豊島は水も空気もきれいだから、野菜もすごく美味しい。野菜が足りなくなったら提携している畑にもらいに行って、ついでにお喋りしたりね」(上野さん)
「私がつくった野菜もここに持ってくるんです。自分たちが食べる分より多めにできた野菜を持ってくる感じだから、農薬も使わないし、そりゃあ美味しいに決まってるよね(笑)。ずっと家にいたら人と会ったり話したりすることも減ると思うけど、ここがあるから元気でいられます」(田中さん)
島の当たり前にこそ、価値がある
甲生の集落にも、つい最近2組の家族が移住してきたそう。藤崎さんのいちごも、最近、移住者の方が手伝いをはじめたという。
「私も年だから『そろそろやめるかも』と言ってるのを聞いて、移住者の子が『おいしいのにもったいない』と。それで、今は見習いをしてもらってます。
昔の景気が良かった頃には、外からわざわざ田舎に来て、農家や漁師を継ぐ人もなかなかいなかったと思うけどね。いまは、そこに興味を持ってくれる若者が増えているんでしょう。豊島のいちご農家も、5人のうち2人は若い人に切り替わってます。
小さい島だから、外から人が来ることにいろんな考え方もあるけれど、私は来てほしい。やっぱり、昔から続いてるなりわいが残ってほしいから」(藤崎さん)
「島の生活を寿ごう、おじいちゃん、おばあちゃんたちに元気になってもらおう」という目的が着実に達成されているさまを、豊島では目にすることができた。
瀬戸内の島々では、もともと外との交流によって、島が開かれ、豊かな文化が築かれていた。しかし、近代化によって航路として海の役割が廃れ、人の動きも減ってしまっていた。
芸術祭は、島に何か新しいものを持ってきたというより、再び外との航路を開き、交流が生まれる場所としての海の役割を蘇らせるきっかけだったのではないか。
その結果、島に元々存在したものの価値もまた、光が当たりはじめた。道すがらの何気ない会話が、日々の暮らしに活力を与えてくれること。島でとれる野菜が、感動するくらい美味しいこと。島の何気ない景色が、誰かの人生を変えてしまうほどの力を持つこと。
そうした価値は、島の人にとっては本来、当たり前だったはずだ。しかし、大きく時代が変化していくなかで、島の人たちですら価値を見失い、あるいは次の世代へ繋ぐことを諦めかけていたのかもしれない。そんな中で、外から来た人々との交流が、豊かな島への誇りを取り戻す手助けとなったように思う。
外から来たごみに苦しめられた島は、外から来た芸術祭によって、再び「当たり前の豊かさ」を取り戻しつつある。それこそが、豊島で感じた「海の復権」だった。
☆お知らせ
瀬戸内国際芸術祭2022 開催概要
▼会期
春会期:4月14日(木)〜5月18日(水)
夏会期:8月5日(金)〜9月4日(日)
秋会期:9月29日(木)〜11月6日(日)
▼会場
直島 / 豊島 / 女木島 / 男木島 / 小豆島 / 大島 / 犬島 / 沙弥島[春のみ] / 本島[秋のみ] / 高見島[秋のみ] / 粟島[秋のみ] / 伊吹島[秋のみ] / 高松港周辺 / 宇野港周辺
夏会期・秋会期ともに参加できる3シーズンパスポートも発売中。チケットの購入や、イベントの詳細公式HPからご確認ください。
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取材長谷川琢也
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執筆友光だんご
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撮影ヤマグチナナコ
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