死後も息づくC.W.ニコルの思い。日本人を育んできた森を未来へ

2020年に亡くなるまで、約40年にわたって日本の森林保全活動をリードしてきたウェールズ生まれの日本人、C.W.ニコル。その名を知らないという若者も、ウイスキーのCMにも起用されたこの髭だらけの顔を見れば、ピンと来るかもしれない。

撮影:山田芳郎

ニコルさんは生前、バブルの開発期にあった当時の日本全国を渡り歩き、自然保護の大切さを説いてきた。

一方で、自宅を設けた長野・黒姫の荒れ果てた森を私財を投げ打って買い取り、少しずつ再生。故郷ウェールズにちなんで名付けられた「アファンの森」は、現在では多様な生物が息づく森として蘇った。

こうした活動は2002年に設立された一般財団法人「C.W.ニコル・アファンの森財団」のスタッフたちが、正職員5人という小所帯でありながら、ニコルさんの死後も引き継いでいる。

アファンの森の航空写真。「アファン」とはウェールズ語で、風が通るところという意味がある

森づくりに象徴される環境活動は100年単位の長い戦いだから、世代を超えて理念を継ぐ必要がある。創設者・アイコン・リーダーの逝去や世代交代のタイミングで、岐路に立たされることも多いはずだ。

ニコルさんを失ったアファンの森財団はいま、どんな困難を抱え、この先の活動をどう見据えているのか。マネージャーとして36年間ニコルさんと連れ添った財団理事長・森田いづみさんに聞いた。

写真提供:アファンの森財団

揺るぎないこの森こそが財産

──きょうはニコルさんというアイコンを失った後の、財団の持続的な活動をテーマにお話を伺いたいと思っています。

まさにその点がもっとも苦心しているところです。

ニコルは著名人でしたから、普通にしていても皆さん耳を傾けてくれるし、スポンサーや会員の方もついてくれていた。我々スタッフには、そんな彼の発信力に甘えている部分があったように思います。森づくりなどの自分の仕事のことだけを考えていれば、財団の運営そのものにまで思いが至らなくても、どうにかなってきたところがありました。

アファンセンター内にある、スポンサーパネル。家具や椅子にも、それぞれ刻印がある

ニコルというアイコンを失ったいま、そのままでは立ち行かなくなっています。これからどうしていくのかをスタッフ一人ひとりが、自分ごととして考えていかなければならない。その渦中にあります。

ただ、私たちがニコルにすごく感謝しているのは、この森という揺るぎない財産を残していってくれたことです。

ここ黒姫には、ニコルとみんなで作り上げてきた35ヘクタールの森があります。最初は荒れ果てた森だったものが、すっかり再生し、日々新しい植物が生え、新たな鳥が息づくようになりました。生き生きとしたこの森こそが、なによりの財産だと思っています。

アファンの森の中にある、フクロウの巣箱。今年も雛鳥が生まれたという(撮影:ヤマグチナナコ)

ニコルの思いは、この森に集約しています。ですから私たちが考えなければならないのは、この森に込められたニコルの思いをどう世の中に伝えていくか。そこにいま、頑張って取り組んでいるところです。

日本人を育んだ多様な自然を取り戻す

──森に集約されているという、ニコルさんの思いを改めて教えてください。

私がマネージャーとしてニコルと関わり始めた約40年前、日本はバブル景気の真っ只中にありました。公共工事、リゾート開発の連続で、豊かな自然がその素晴らしさなど一切顧みられることなく、次々と破壊されていきました。

日本の国土は南北に長く、北には流氷があり、南にはサンゴ礁が広がります。複雑な海岸線は、引き伸ばせばアメリカよりも長い。高い山と谷もあります。北から南、上から下まで、ものすごく多様な環境と、それに伴う生物の多様性があるのが日本という国です。

その生物の多様性が日本人の生きる力を育んだ、というのがニコルの考えでした。

戦後復興と高度経済成長に象徴される、世界でも類を見ない発展を遂げることができたのも、日本に多様な自然があったから。多様な自然に適応しようとしたことが日本人の知恵と想像力、ハードワークに耐え得る健康な身体、そして分かち合いの精神を育んだとニコルは考えていました。

その多様な自然を当時の日本人は自ら破壊していたのです。

バブル期の開発により、日本の海岸線の四分の一は形を変えてしまいました。日本の国土の67%は森で覆われていますが、多様な生物が息づく昔ながらの環境が残った「原生林」は、そのうちの2%しかありません。

ニコルの愛したここ黒姫も、開発の手を逃れてはいませんでした。雪解けの時期になると、清らかだった鳥居川がどんどん真っ黒になった。それは、上流で国有林がバサバサと切られていたからです。近くの国道にはいつも大きなトラックが列をなし、樹齢400~500年の木を切って運んでいました。

ニコルはそこに危機感を覚え、自分の家を建てようと思って貯めていたお金を切り崩して、森を買うことを始めました。「自然は未来の人からの借り物だ」と考えていた彼は、多様性のある森を未来の人に残すべく、本気で「ノアの方舟」を作ろうとしていたのです。

経済活動と森の保全は矛盾しない

──買い始めた当時、この辺りの森はいまとはまったく姿の異なる、荒れ果てた森だったそうですね。

地域の人たちからは「あんな幽霊森を買ってどうするんだ」と笑われたくらいでね。しばらくすると今度は「ニコルさんはきっと、長野五輪に向けて土地転がしをするつもりなんだろう」と陰口を叩かれるようにもなりました。それでもめげずに、ニコルは少しずつ森を買い足し、手入れをしていきました。

私はマネージャーとして彼の通帳を見ていたから知っているんです。お金が入るたびに本当に全部、土地につぎ込んでしまうんですよ! 彼はそれくらい必死の思いで、この森を買っていたということです。

写真提供:アファンの森財団

──多様な生物が息づく森にするには放っておくのではダメで、人が手入れを続けなければならないんですよね?

そう。皆さんあまりご存じないのですが、日本の絶滅危惧種の半数以上は住宅地にも近く、人の出入りがある里山にいるんです。生物の多様性は、人が手を入れて初めて保たれる。人と共生することでうまくいっていたのが、里山というエコシステムです。この「SATOYAMA」という言葉は、現在では国際語にもなっています。

しかしその里山が、放置され藪になってしまいました。だから絶滅しそうな種が増えた、ということです。

──ニコルさんの著書では「良い森は人の役に立つ」ことも強調されていました。

「里山が大事なのだから、あなたたちも手入れしなさい」と言ったところで、そうはいかないのが人間です。お金になるからやる。ならなければやらない。ニコルもそれは仕方のないことだと思っていました。

昔は薪をとったりキノコを作ったり山菜を摘んだりと、生活の中に里山の価値がありました。だからみんなが当たり前のように森の手入れをしていた。その結果として、自然と共生するいい状態が出来上がっていたということです。

であれば、現代にアップデートされた、里山の新しい経済価値を作っていく必要がある。森林療法、アロマセラピー、環境教育など、私たちがさまざまなことに取り組んでいるのには、そうした意図があります。

──持続的に活動するためには、お金も循環するかたちで、多くの人を巻き込んでいかないといけないということですね。

そうです。ニコルもよく言っていました。「エコロジーのエコとエコノミーのエコは同じだ」ってね。

子供たち=未来。「心に木を植える」活動も

──ほかにもニコルさんが大切に考えていたことがありますか。

子供たちのことをすごく心配していました。「森だけ育てて、人を育てなければ意味がない」「子供にとって森を遠い存在にしてはいけない」と、環境教育の重要性をいつも説いていました。

ただ、この森は当時ひどく傷ついた状態だったので、誰でも彼でも受け入れるわけにはいきませんでした。そこで最初は、これまで森に縁がなかった子供たち、中でも特に森を必要としていると考えられる、障害を持つ子供や心に傷を負った子供たちを呼ぶことにしました。

写真提供:アファンの森財団

ニコルの故郷であるウェールズでは、古くから自然療法が盛んです。たとえば成人病の患者などに対して「あなたは少し太り気味で膝が悪いから、Aコースを週3回歩きなさい」というように、医師が森の散歩の処方箋を書くんです。

ニコル自身は、そうした例を通じて森の持つ癒やしの効果を昔から知っていました。けれども、日本人にはエビデンスがないと信じないところがあります。そこで、地元・黒姫にある信越病院の医師と、ニコルの主治医の呼吸器科の先生と3人で組み、科学的な方法に基づいた森の癒やしの効果の調査・検証を行いました。

その結果、森を2時間くらいかけてゆっくりと散歩をすると、血圧の高い人は下がり、低い人は上がること、免疫力の高さを示すナチュラルキラー細胞の値が上昇することなどがわかりました。なおかつ、この効果はストレスフルな東京の環境に戻ってからも、徐々に下がりながらも約1週間は持続することがわかっています。

いまでこそ林野庁が中心となって盛んに取り組んでいますが、当時はまだ「森林療法ってなんのこと?」と言われる時代でした。ですからこれも、先ほどの「森の新たな価値を作る」活動の一つと言えるわけです。

それと同時に、未来の担い手である子供たちと森をつなぐ活動でもある。子供たちの心を元気にするこうした活動を指して、ニコルは「子供たちの心に木を植える」と言っていました。

ニコルさんがやり残した「次のステップ」

──活動を始めた当時といまとでは、日本の状況も大きく変わっていますね。

環境意識の高い欧州と比べればまだ遅れているとはいえ、当時のような闇雲な開発はなくなりました。これはひとえに環境教育の賜物でしょう。いま「SDGsってなに?」なんていう子供はいないように思います。

そう考えると、つくづくニコルの死は早すぎました。ようやくスタッフとも落ち着いていろいろな話ができる時代になったというのに。それがすごく残念。彼の頭の中には、明確に次のステップが描かれていましたから。

──次のステップというのは?

一つは、これまでの森づくりの活動を総括して、ノウハウとして広くシェアすることです。これまでに森にどのような手入れをし、その結果どのような変化があったか。環境省などもそうした調査はしていますが、うちはどこにも先駆けてそのような取り組みを行い、続けてきたので。独自のデータもたくさんあります。

もちろん簡単にノウハウ化できるものではないですが、やはりどこかで一度総括して、外に向けてもっと伝えていく必要があるとニコルは言っていました。それは日本という国に移り住み、すべてを注いでこの活動を続けてきた、自身の人生の総括も意味していたと思います。

そしてもう一つは、日本人に対してライフスタイルに関する提言を行っていくことです。要するに、本当のクオリティ・オブ・ライフとはなにか。日本人もそこを追求する時に来ていると考えていました。

2015年に新たな仲間として加わった雪丸、茶々丸という2頭の馬は、そのための重要な役割を果たす存在です。

──どういうことでしょうか。

馬を使って畑を耕す「馬耕」や、切った木を森を傷つけることなく外に運び出す「馬搬」など、日本人は昔から馬とともに暮らしていました。馬は里山の文化に組み込まれた存在だったのです。

時を大事に生きる、場所を大事に生きる、食べ物を大事に生きる......。馬というパートナーは、なにかに駆り立てられるようにせわしなく生きる現代人に、いまはすっかり忘れ去られたこうした暮らしを思い出させてくれます。

なにより、そういう暮らしは最高に楽しいんですよ。それを日本人に見せていきたいんだとニコルは言っていました。

──環境活動に絶えず駆り立てられる「公人」としての人生を、ニコルさんご自身がどう思っていたのかが気になります。自分のやりたいことと社会からの要請の狭間で、ストレスを感じることはなかったのでしょうか。

あったと思います。ニコルは物を書くのが好きでした。根っからの小説家なんです。未完になってしまいましたが、亡くなるその時まで作品を抱えていましたし。書く意欲は最後まで衰えませんでした。

アファンセンター内で販売している書籍

36年間マネージャーをやっていて、後悔はいくつもありますが、もっとも心残りなのはそこです。果たして彼は幸せだったのだろうか、と。

バブル期の日本で、環境活動の先頭に立って旗を振り続けた人生でした。本当は黒姫に残って、昼間は薪割りに汗を流し、サウナに入ってのんびりし、小説を書き、夕方からは友達に囲まれて、大好きなワインを飲んで過ごす。そういう生活がしたかったのかもしれない。

彼は小説家として、もっといい作品を残せた人だったと思っているんです。だって、環境運動に入る前の彼の小説は素晴らしいものばかりですから! 彼を執筆活動に専念させられなかったのは、マネージャーである私の罪だと思っています。

別れ間際にひとときの再会。財団は一つに

写真提供:アファンの森財団

──2002年に財団を作ったこと自体もその一つだと思うのですが、ニコルさんは生前から、ご自身が亡くなった後のことを想定していたのでしょうか。たとえば理念の共有や意思決定の仕方など、財団の運営の仕方について伺いたいです。

お伝えしたように、生前のニコルの仕事はほとんどが外でのものでした。ここに残って森づくりの仕事に専念するスタッフとは、なかなか膝を突き合わせて話す時間を取れなかったのが実情です。使命感を持ってよくやってくれるスタッフを信頼していたがゆえ、ということでもありますが。

それでも、森づくりに関して私たちの間で大きなズレはなかったように思います。森づくりはもともとニコル自身がやってきたことがベースになっていますし、ニコルの考えは書物などの形でたくさん残っていますから。

とはいえ、直接話すことで初めて伝わることがあるのも事実でしょう。

──亡くなる直前に、引き継ぎや心の準備に十分な時間があったのでしょうか。

いや、それがまったく。もちろん随分前からがんを患ってはいたのですが、その処置自体は済んでいて、私たちも良くなるものとばっかり......。

晩年は東京の病院に入院していたんです。本人は「長野に帰りたい、帰りたい」と言っていたのですが、それは難しそうな状態でした。ところが亡くなる2週間前に、検査の値が急激に良くなって。それで黒姫に帰ることができたんですよ!

帰ってきてからは食欲も出て、友達と会ってワインを飲んだりもしていました。毎日嬉しそうな顔をしていてね。このまま良くなるものと思っていたら、突然悪くなって。それっきり。

でも、短い時間でも黒姫で友人たちと過ごすことができた。神様が最後に与えてくれた時間だったように思います。

それは残された私たちにとっても貴重な時間でした。幸か不幸か世の中はコロナ禍で、それまでのようには活動できない時期でした。それゆえ、ニコルをもう一度手のひらに乗せて、あっちから見たりこっちから見たりする時間があった。

ですから、亡くなったことは辛かったですが、それがこの時期だったことには感謝しているんです。ちゃんと人の死を悼むことができた。コロナ禍ではない、いつも通りみんながせわしなく走り回っている時だったら、そうはいかなかったと思います。

もちろん、遠くない未来にこの時が来ることはわかっていましたが、日々の仕事に追われて、なかなか向き合えないでいました。ニコルが亡くなったことで、強制的にそこに目を向けないわけにはいかなくなった。いまはニコルが生きていた時よりも、スタッフがお互いのことを知っています。みんなが当事者意識を持って、今後について考えられている。ようやく一つになれたと感じています。

森を通じて社会に働きかけることが使命

アファンセンター横の、森へ続く道(撮影:ヤマグチナナコ)

──現在の財団の運営体制は?

ここ黒姫に常駐しているメンバーが、アルバイトを含めて7人。また、支援くださる企業が東京に多いこともあり、東京にも事務所を構えて、私を含む3人はそちらを中心に活動しています。

──思っていたよりも小所帯なんですね。

そうなんです。これはほかのNPOさんもどこも一緒かとは思うのですが、スタッフの数も、運営資金も限られています。これだけの広さの森を見るだけでも、朝から晩まで走り回っている状態で。

でも、本当にニコルの思いを継ぐのであれば、森を守るだけで終わってはいけないと思っています。

──どういうことでしょうか。

ニコルは単なる「自然保護のおじさん」と捉えられるところもありますが、私はどちらかと言えば、社会活動家に近かったと思っているんです。

彼は単に森を保全するというだけでなく、この森を通して、より良い社会にしていきたいと願っていたのではないか。だからこそ子供たちのプログラムもやるし、震災復興のお手伝いといった方面にも発展していったのでしょう。

ニコルはいつも時代を見ていました。生きていたら、きっと今回のウクライナの戦争についてだって、なにかしらの発言をしていたと思います。

スタッフにはそれぞれ得意分野があります。ニコルしか知らないこと、できなかったことがあったのと同じように、ニコルだって知らなかったことをスタッフは知っています。一人ひとりが「小さなC.W.ニコル」になって、それぞれの立場から、この森をどう社会に生かすかを考えていきたいと思っています。

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