悪いのは本当に俺なのか。解きたくても解けない「男らしさ」の呪いの話
アラサー男子、社会人10年目。ポジションが上がり、スキル的にもやれることが増えた。仕事はどんどん楽しくなっている。
そんな僕の最大の悩みは、職場の後輩とのコミュニケーションだ。難しすぎて、困るを通り過ぎて正直怖い。具体例を挙げるなら、たとえばこんな感じだ。
- 良かれと思って後輩に毎日アドバイスを続けていたら、自分の助言がプレッシャーになってしまったみたいだ。強い言い方をしたつもりはないのだけれど。あれでもパワハラ?
- 休日返上で仕事に没頭するなんて自然なこと。好きで就いた仕事、好きで入った会社なのだから。なのに「ワークライフバランス」ってなんだ。
- どれだけ忙しくたって、仕事終わりにはみんなで飲みに行って、腹を割って話すべき。全人格的に付き合ってこそ強くなるのがチームでしょ。アイデアや成長のきっかけも、そういうところにあると思うのだけれど。
- 出来ていない仕事について指摘したら、すぐに言い訳を並べてくる。いろいろ事情があったのはわかるけど、結局は君にも原因があるんじゃないの?
......というストーリーはすべてフィクション。だが、似たような悩みがあるのは本当だ。みなさんはどうだろう。こんな葛藤を抱えてはいないだろうか?
こういう「男性的」なふるまいが時代錯誤なのはわかる。それでつらい思いをしていた人が昔からいたことも、「女性の社会進出を妨げていた」といった議論があることも、頭ではわかっているのだ。
それでも、「そこまで間違ったことなのだろうか」と腑に落ちない自分もいるし、なかなかふるまいを改められないでいる。このままではいつかパワハラで訴えられて、社会的な地位を失ってもおかしくない......そんな危機感がある。一体どうすれば?
このような問いを携えて、今回は恋バナ収集ユニット「桃山商事」で活動する文筆家の清田隆之さんにお話を伺った。「男性性」から来る問題を自分ごととして捉え、広く発信している清田さんに「解きたくても解けない男らしさの呪い」との向き合い方を聞いた。
清田隆之(桃山商事)
1980年東京都生まれ。文筆業、恋バナ収集ユニット「桃山商事」代表。これまで1200人以上の恋バナを聞き集め、「恋愛とジェンダー」をテーマにコラム等で発信している。桃山商事としての著書に『生き抜くための恋愛相談』『モテとか愛され以外の恋愛のすべて』(ともにイースト・プレス)、単著に 『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』 (晶文社)『さよなら、俺たち』(スタンドブックス)など。新刊『おしゃべりから始める私たちのジェンダー入門──暮らしとメディアのモヤモヤ「言語化」通信』(朝日出版社)が2023年6月に発売。
リスク管理も大事だけれど
── 取材をさせてもらう僕自身、男性当事者として葛藤があります。後輩と接する時などに、気づくと「男性的」なコミュニケーションを行っている自分がいるんです。おそらく、自覚している以上にあるんじゃないかと。このままだと知らず知らずに人を傷つけてしまい、パワハラで社会的地位を失いかねない怖さも感じていて......。
その恐怖、わかる気がします。経営者や管理職だけでなく、部下や後輩がいたり、それなりのキャリアを重ねていたりと、この社会である種の"権力"を持っている男性たちは──それは立場上「持たされている」とも言えるかもしれないですけど、多かれ少なかれそういう恐怖を抱えているんじゃないかと感じます。
そこには、これまでは訴えても取り合ってもらえなかった人たちの声が、メディアやSNSでどんどん可視化されるようになってきた背景があると思います。それ自体はとても大事なことで、ある意味で社会として進歩しているがゆえに生まれた恐怖とも言えるわけですけど、僕たち含め、多くの男性がプレッシャーを感じるようになっているのは確かだと思います。
── そういうプレッシャーを受けて、企業の男性たちの意識は変わってきているのでしょうか?
うーん、どうなんですかね。
確かにジェンダー講習や勉強会のような機会は増えていると聞くし、僕自身もそういう場に呼んでもらうことが増えました。企業の男性たちが、ジェンダー観をアップデートすべくさまざまな対策をする動きが始まっている印象は受けます。
ただ、それが性差別やジェンダーギャップの問題を解消したいという動機から来ているものかは正直わかりません。意地悪な見方をするなら、男性たちが社会的な立場を脅かされる恐怖に直面していて、そのリスク対策としてやっているようにも映るし、企業としても、「炎上したり株が下がったりするから気をつけねば」という意識のほうがまだまだ強いかもしれない。
日本社会は長らく「稼ぐのは男性。女性は家庭に入ってそれを支える」というモデルに則って突き進んできました。社会全体がそれで経済発展してきたという成功体験を共有しているわけですよね。
そのため、明らかに時代が変わり、政府だって表向きは「女性活躍」を謳っている現在もなお、女性が政治や経済に参加するハードルはまだまだ高い状況にある。と同時に、男性自身も「仕事で成功して家族を養わないといけない」というある種の呪いから抜け出せず、加害者にも被害者にもなりえる状況に立たされている。
ジェンダーの問題って、そういう社会構造や規範意識から問い直していくべきものだと思うのですが......まだまだそうはなっていないのが現状ではないかと感じます。
Yahoo! JAPAN「データで知る日本のジェンダーギャップ」
政治や経済に対する女性参加の割合など、日本におけるジェンダーギャップの具体的な問題は、こちらの記事から知ることができる
もちろん、企業側が制度や環境面を整えていくことが重要なのは間違いありません。例えば傷つけられた人の訴えを受け止める相談機関を作る、第三者が調査できる体制を整える、被害を訴えた人がその後も仕事がしづらくならないような環境にする、など。そういったことに取り組む企業が増えていくのは間違いなくいいことだと思います。
ただ、組織としてはそうでも、そこにいる男性一人ひとりが自分ごととしてこの問題を考えられているかと言えば、疑問も残る。講座や勉強会のような場では、男性の参加者から「何が問題なのかわからない」「なぜ男ばかりが悪者扱いなのか」「むしろ俺たちの方が被害者では?」という声が一定数上がってくるんですね。「マジか......」と思う一方、そこには切実な感情が乗っかってもいて、すごく難しい問題だなと感じます。
── なぜ自分ごととして捉えられないんでしょう。この問題の難しさの本質って、どこにあると思いますか?
もちろん、誰にとっても加害者側、特権を持ってる側に振り分けられることは心地良いものではないだろうし、誰の目にも明らかな暴力などはともかく、指導や教育とハラスメントの違いを明確に自覚するのもなかなか難しい。
権力勾配を意識するとか、職務と無関係な話題は避けるとか、ある種のガイドラインは確かに存在します。でも、「ここまではOK、その先はNG」といったシンプルな話ではないし、その境界線は状況によっても相手によっても異なってくるため、ケースバイケースで判断していかなければならない部分もある。さらに、立場やキャリアのある男性にとっては、過去の自分の振る舞いを疑い、否定しなければいけない部分もあるわけですよね。
それよりも「俺はハラスメントなんかしない」「そんなのやばいやつがやることでしょ?」と自分から切り離してしまったほうが楽だし......そういう構造も含め、なかなか自分ごととして捉えにくい問題なんだと思います。
自分と向き合う必要のない社会
── でも、自分ごととして捉えられなければ、今後も無自覚に人を傷つけてしまう可能性がある。どうすればいいんでしょうか?
「こうすれば大丈夫!」という解決策は正直ないと思いますが......自分の内側を知り、言動を振り返っていくことは不可欠だと感じます。
我々の何気ない言動には、思っている以上に自分の価値観が反映されている。そして、自分の価値観というのは、それまでの人生で触れたさまざまな社会的・文化的背景の影響を受けて形成されているものですよね。
だから、言動を省みるためにはまず、自分がどのような価値観を持った人間なのか、その価値観がどんな社会的・文化的背景の影響を受けて形成されたものなのかを知る必要があるのではないでしょうか。
でも、日常生活の中ではそこまで考える機会ってほとんどありませんよね。多くの場合、ハラスメントとして問題になったとか、その結果何かを失ってしまったとか、そういう決定的なクライシスに直面した時に初めて「なんでこんなことになってしまったのか」と考え始めるんだと思うんです。
そんなタイミングでたまたまジェンダーの問題の視点と出会うことがあると、「ああ、ひょっとしてこういうことだったのか」という感じで、いろんなことが一気につながったりする。そういう体感があって初めて、学んだことと自分の内側の問題とを少しずつ結びつけて考えていけるようになるんだと思います。
── 普通に生きているだけでは、自分の内面と向き合う機会がなさすぎる、と。
すべての男性がという話ではもちろんありませんが、なぜなんでしょうね......。ひとつは、自分のことを知らずとも生きていけてしまう社会構造になっているからというのが大きいと思うんです。いわゆるマジョリティ(多数派)の男性は特にそうですよね。いわゆる男性社会では、仕事さえしていれば「ちゃんとした人」と見なされたりする。
仕事をする上でも人ではなく役割や機能として見られ、主に問われるのは「来た球をどう打ち返すか」です。自分の一挙手一投足がどういうメカニズムで成り立っているかといった「内面」まで掘り下げることは、まず求められない。むしろ「仕事に個人的感情は持ち込むな」というのが男性社会の規範じゃないですか。
── おっしゃる通りですね。
働いていれば、いろいろな感情が湧いてくるものですよね。「嫌だった」とか「悔しかった」とか「腹が立った」とか......。でも、そういう感情に振り回されず、スキルや能力を磨くことが成長なのだというモデルを刷り込まれているから、自分の感情を無視する癖がついてしまう。
でも、いくらスルーしたところで感情はなくなるわけではないから、どこかのタイミングで疼き出す。例えば小学生の時の怖かった記憶やムカついた記憶とかって、いつまでも覚えているじゃないですか。ああいう感じで、沈殿した感情はいつまでも残っている。それが何かの場面で反応し、嫌な感じの表れ方をしてしまうことが結構あるように思います。
だから、暴力やハラスメントをしてしまった人は当然罰せられるべきだし、被害者にはしっかりと謝罪すべきだけれど、なぜその人がそういうことをしてしまったのかという背景にも、別の場所でちゃんと目を向ける必要があるんじゃないか......と。
丁寧に奥底まで剥がしていけば、「こういう瞬間に腹を立てがちなのかもしれない」「実はあの時すごく我慢していたんだ」という自分に気づく。そうやって言葉にして、自身の内面のメカニズムを明らかにして初めて、本当の意味での謝罪もできるようになるんだと思います。......ただ、それにはどうしても時間がかかる。もちろん相手には相手の時間が流れているので、そこが本当に難しい。
って、さっきから「難しい」とばかり言ってしまっている気がしますが......。
男性社会には、雑談が足りない?
── でも、実際に難しい問題だから仕方ないですよね......。そんな難しさだらけの中で、清田さんご自身はどうして自分の内なる「男性性」や、それが生み出すよくないコミュニケーションに気づけたんですか?
うーん、「俺はもうアップデート済みだぜ」という話では決してなく、いまなお模索中なのですが......学生のころから桃山商事の活動を通じ、いろいろな人の恋愛相談に耳を傾けてきた経験はやはり大きいと感じます。恋バナの中には「ダメな彼氏」や「ヤバい夫」の話が本当にたくさん出てくるんですね。そのディテールを聞いていると、「つらい話だな」「ひどい男だな」と思いながらも、同時に「でも待てよ......俺も昔の恋人に同じようなことをしていたかも」って、ゾッとする瞬間がしょっちゅうあって。
桃山商事では見聞きした恋バナをPodcastで紹介する活動もやっているんですが、メンバーはみんな長年の友人だから、互いの過去をよく知っているわけです。それで「お前もあの時、元カノに同じようなことやってたよな」みたいにバラし合うことが結構ある。
そうやって外から暴露されると、都合よく"歴史修正"することができないじゃないですか。だから見たくない自分とも向き合わざるを得なくなる。確かに恥ずかしい瞬間でもあるのですが、「そう言われてみると、なぜあんなことを言ってしまったのか」「こういうふうに思ってたからかな?」など、みんなの知恵も借りつつ半ば強制的に振り返る時間は自己理解の助けにもなってくれる。
そういう形でジェンダーをめぐる個人史を振り返れたのは良かったと思います。いろいろな人の話を聞く中で、自分の中で蘇ってくる記憶、刺激される感情がある。そこから自分自身の言語化のきっかけをもらうことができたので。
── こういうことって、自分だけでやるのは難しいですもんね。人と語り合うのが大事ってことなんでしょうか。
そうですよね。もちろんカウンセリングみたいな場でプロの力を借りるというのも手だと思いますが、日常的に友達と雑談したり、お茶したりっていうのが効果的なんじゃないかと思います。
実際に、自分の周囲の女の人がお茶しながら近況を語り合い、「わかる、わかる」と話しているのを横で聞いていると、「こういうのがメンズの世界には足りないよなあ」と思う。男の人って自分の外側の話はわりと雄弁に語る一方、内側の話を気兼ねなく喋る感じはそう多くない気がして。
僕は女性として生きたことはないので、女の人たちがおしゃべりを通じて何をどう感じているのか、本当のところはわかりません。でも、女性同士の雑談は、例えば自助グループのプログラムでやっているようなこととも通じる何かがあるように見えます。
似たような痛みや問題を抱えた人同士で喋っていると、「あるある」というか、問題を生み出す典型的な状況や構造が浮かび上がる。そういうものを時には笑い混じりに、でも馬鹿にしたり糾弾したり茶化したりすることなく安全に振り返ることが大事なんじゃないかな。そうするとそこから言語化が進み、自己理解が深まることがあるんだろうな、と。
「男性はそういう場を持ちにくい」と言われると、堂々巡りになっちゃいますけど。でもそういう場合は、記事や本を読むのでも助けになるかもしれない。まったく関係ない人のエピソードでも、読んでいると「あの時の俺と同じことを言ってる!」と思う瞬間がたくさんありますよね。実際、僕の本にもそういう感想がたくさん寄せられました。
必要なのは、曖昧なところに留まる力
── でも、自分の内面と向き合うのって苦しくないですか? 清田さんはそうやって嫌なことを含めて自分の過去を掘り返しても苦しくない?
う〜ん、どうなんだろう......。もちろんお腹が痛くなるような瞬間は多々あるんですけど、自分としては苦行をしている感覚はなくて。自分という人間についての理解が深まるというのは不安の解消にもつながるし、そんなにネガティブなことばかりではないと思うんですよね。
みなさんも同業者だからわかると思いますけど、インタビューの仕事をしていると、自分とはまったく関係ない仕事をしている人の話を聞いていても「ああ、そういうこと考えたことある!」「似た経験なら自分にもあるな」と感じる瞬間があるじゃないですか。そういう瞬間ってすごく面白いですよね。
あれと似た感覚かもしれないです。自分の中に未開拓の広大な土地があって、人と対話することでそれが耕され、いろいろなものが出てくる。そのうちの一つが、たまたまジェンダーと自分自身の価値観の関係性だった、という話で。新刊『おしゃべりから始める私たちのジェンダー入門』では、まさにそのようなことを主題にしています。
もちろん、掘り下げていく中で「なんて申し訳ないことをしてしまったんだ......」と自分の加害者性に気づかされる瞬間も少なくありません。その相手といまもコミュニケーションが取れる関係にあれば、会って「あの時はごめん」と謝ることもある。でもその逆もあって、「あの時は流しちゃったけど、いまでも腑に落ちてないぞ」って、ある種の被害者性に気づいたりもする。それだって、自分が抱えている感情を理解することの一部だと思うんです。
「全部自分が悪かった」とか、「むしろ俺は被害者だ」とか、オールオアナッシング的に考えたくなる瞬間もあるとは思います。でも、極端な思考に走ってしまうと、「どうせ何を言っても悪者扱いだろ」「もう怖くて何も発言できない」などとふて腐れた気持ちになってしまったり、あるいは逆に、「ジェンダーとかポリコレとか、うるせえ!」「俺は自由だ。変わらない俺で行くぜ」などと開き直ってしまったり......。
100か0かで考えるのではなく、宙吊りの状態に身を置きながら、その時々の現実に照らして、自分の現在地を把握していく。それが結果として自分の生きやすさにもつながっていくのではないかと思います。
── よくわかります。でも、それこそが「スッキリしなくてつらい」という人も多いのでは?
大御所のコメディアンがテレビでよく言っていますよね。「何がよくて何がダメなのか、ハッキリ言ってくれ。そうすればそれを守るから」って。でも、そんなものは多分ないじゃないですか。先ほども話に出たように、そんなシンプルに区分けできる問題ではないし、社会規範のようなもので一様に決められるものでもないので。
もちろん「互いの人権を侵害しない」というのが大前提ですが、その上で、スッキリしない、曖昧な状態の中に留まって考え続ける態度こそが大事ではないかと思います。
── どれだけ大変でも「この人と自分の間では、これはOK」「でも、あの人との間ではNG」みたいなことを全員分やるしかない。
そう思います。そして、それをやるには前提として自分の感情と向き合っていくこと、目の前にいる相手の話に耳を傾けていくことが必要ではないかと思います。
いくらルールや心構えを学んだところで、自分の感情を置き去りにしたままでは無理が生じるだろうし、相手の話を聞かないことには、互いの重なり合う部分や相容れない部分を把握することは難しい。「自分と他者は異なる存在」という前提に立った上で、状況に応じた現実的な関わり方を模索するという作業をくり返していくしかない。
もちろん、実際にやるのは大変だと思います。でも、強い立場にいる人ほどそれをやっていく必要があるのではないか。じゃないと結局、誰かが我慢しなければならなくなる。そして、そういう時に我慢するのはたいてい若い人、弱い人になってしまうわけで......そんな社会は誰にとっても生きやすくないだろうって思うんです。
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執筆鈴木陸夫
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