一人ひとりの眠りが社会を変える? 睡眠とウェルビーイングの深い関係
眠りとは、幸せで大切なもの。多くの人がそう思いつつも、日々の習慣なだけに、あらためてその価値に向き合う機会は少ないのではないか。そこで、2023年に世界的な科学賞「ブレイクスルー賞」に選出されるなど、睡眠学の分野で現在もっとも注目される研究者である柳沢正史さんに話を伺った。
"ワクワク"するサステナブルのヒントを教えてくれた人
柳沢 正史さん
株式会社S'UIMIN代表取締役社長、国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)機構長。1960 年東京生まれ。筑波大学大学院修了、医学博士。米国科学アカデミー正会員。1988 年に血管制御因子エンドセリンを、 1998 年にオレキシンを発見。31歳で渡米し、24年間にわたりテキサス大学とハワードヒューズ医学研究所で研究室を主宰。2012年にWPI-IIISを設立し、2017年に株式会社S'UIMINを起業。紫綬褒章(2016年)、朝日賞、慶應医学賞(2018年)、文化功労者(2019年)、ブレークスルー賞(2023年)、クラリベイト引用栄誉賞(2023年)など受賞歴多数。
睡眠不足大国・ニッポンの課題
一日の終わりに寝床に就いた時に感じる幸せ。それを「なんで」と捉えたVOICEに回答してくれたのは、筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構の機構長・柳沢正史さん。睡眠研究の世界的な権威である柳沢さんは、生物学と社会科学という二つの視点から、この素朴な疑問を読み解く。
「睡眠欲は生物として根源的な欲求。それが満たされる時の感覚は、『幸せ』と表現できるかもしれませんね。一方、社会科学的な切り口では、ネガティブなニュアンスを読み取ることもできます。仮に『幸せ』だと認識している理由が、普段から思うように睡眠時間が確保できていなくて、眠ることを貴重だと考えているからだとしたら、『睡眠不足大国』である日本の課題が浮かんでくるように感じます」
柳沢さんが「睡眠不足大国」と表現したように、先進国の中でも日本は、国民の平均睡眠時間が特に短いことで知られている。通常、成人に必要な1日の睡眠時間は6~8時間とされている中、日本人の平均睡眠時間は約6時間20分で、欧米をはじめとする先進各国に比べて1時間ほど短いという調査結果もあり、「まじめに仕事や勉強などに励んでいる日本人の多くが、本来のパフォーマンスを発揮できていないのは、とても残念」と柳沢教授は語る。
「睡眠不足が慢性化した状態を『睡眠負債』とも言いますが、その負債が溜まるほどに、どんどん脳のパフォーマンスも低下します。たとえば、1日4時間睡眠を5日間、あるいは6時間睡眠を10日ほど続けると、脳の働きは『完徹』明けと同程度に鈍ってしまう。これは、しっかりとお酒に酔った時と同じくらいのパフォーマンスだと言えば、影響の大きさが分かるでしょう」
睡眠不足は短期的な生産活動にも影響するほか、感情のコントロールを困難にし、利他的な行動を減少させるという研究結果もあるという。また、長期的には生活習慣病や認知症などの発症リスクを高めることにもつながり、個人の経済的負担のみならず社会保障費の増大をも招いてしまう。こうした睡眠にまつわる問題が積み重なると、社会全体の持続的な成長を阻害しかねない。
「実際に、国民の平均睡眠時間の長さと、その国全体の経済的な豊かさには正の相関関係があるんです。先進5カ国の中で、睡眠不足による日本の経済的損失はもっとも大きく、国内総生産(GDP)の2.9%に当たる15兆円が失われていると試算されています。つまり、睡眠不足は個人だけの問題にとどまらない、まさに社会課題と捉えるべきものなのです」
眠る時間は不可分所得として捉えるべき
日本人が睡眠不足である背景として、一般的には通勤時間の長さや、夜に楽しめる娯楽の普及、残業時間の多さなど、さまざまな要因が語られているが、柳沢さんは「それらは決して、日本に限った話ではありません」として、諸問題に通底する意識を指摘する。
「多くの人が睡眠について、『しなければいけないことをやって、残りの時間を充てるもの』だと考えているんです。つまりは、睡眠時間を家計における可処分所得のように思っている。でも実際は住宅ローンのように、24時間からあらかじめ差っ引いて考えるべきものなのです」
眠ることの優先順位を低く捉える意識は、社会のさまざまな面に見て取れるという。その一つが企業の姿勢だ。
「近年は健康経営が重視されていますが、まだまだ企業の本気度が足らないように思います。従業員がしっかり睡眠をとっている会社ほど利益率が高いという研究結果もあるのですから、家での十分な睡眠を確保できる働き方の整備は、対外的な信頼度やCSRの向上のためだけでなく、企業業績に直接関わる課題として取り組むべきです」
また、十分に眠れていないことを当たり前とする考え方は、子どもの頃から身に付いていくため、社会全体の価値観として定着しまうのだと続ける。
「晩ご飯を用意する親の帰宅時間が遅くなったり、部活や塾などで忙しかったりと、今の子どもたちはなかなか十分な睡眠がとりづらい。それに、社会の仕組が、長く眠ることよりも早起きという美徳を重視していますよね。子どもの脳の成長にとって眠ることは非常に大切。睡眠不足によって子どものポテンシャルを最大限に伸ばせなかったなら、それは社会にとっての損失でもあります」
このように、眠ることの大切さには様々な裏付けがある。それにもかかわらず、睡眠に対する意識を変えるのが難しいのはなぜなのだろうか。
「人は脳のパフォーマンスの低下を、実際よりも軽いものとして認識してしまう。そこに、意識変容の難しさを感じます。体感的には『このくらいなら大丈夫』という眠気だったとしても、実際には思った以上に脳の働きが鈍っているものなんです。でも、自分がどれだけ睡眠の影響を受けているのかを客観視する機会がないため、『寝なくても死ぬ訳ではない』といった考えのまま、日々を過ごしてしまうのだと思います」
この指摘を言い換えれば、自身の睡眠を客観視する機会があれば、眠ることに対する意識を改善していけるということ。柳沢さんが現在、その機会を広げるために行っているのが、筑波大学発のベンチャー企業・株式会社S'UIMIN としての事業活動だ。
「当社のInSomnograf(インソムノグラフ) というサービスは、脳波IoTデバイスを装着することで、在宅でも医療機関並みの高精度で睡眠の質を計測することができます。測定結果はAIによって解析された後、より良い睡眠に向けた専門家のアドバイスとともにレポートとしてユーザーに送られ、睡眠外来へのスムーズな受診につなぐこともできます」
同じ程度の精度を持つ「PSG」という検査を受ける場合、通常は専門の医療機関に赴き、たくさんの電極を身体に付け、慣れない環境で眠る必要がある。InSomnografの場合は、額と耳の後ろに薄いシール状の電極を装着して自宅で眠るだけと、非常に手軽。柳沢さんは、「このサービスを通じて、世界中の誰もが一度は自分の睡眠と向き合ったことがある社会を実現したい」と力を込める。
探究心と社会貢献を両立する事業活動
柳沢さんはノーベル賞の登竜門とされる各賞を受賞するなど、睡眠学でもっとも注目される研究者だ。こうした評価につながる大きな功績の1つが、睡眠・覚醒を制御する「オレキシン」という脳内タンパク質の発見。この発見が、日中に突然入眠してしまう「ナルコレプシー」という睡眠障害の原因究明や治療薬の研究、不眠症治療薬の実用化に貢献している。そんな柳沢さんが睡眠について積極的に啓発活動を行うのは、「人よりも多くの知識を持っているのであれば、それを社会と共有することが研究者の責任」と考えるからであり、このような社会貢献への意識のもとで、S'UIMINも立ち上げられた。
「睡眠を計測することにより、眠りに関する様々な悩みにアプローチできますが、特に必要としているのは睡眠時無呼吸症候群を患う方です。治療を検討しなければいけない中等症・重症の人だけでも国内で推計900万人にのぼり、放っておけば命に関わる病気にもかかわらず、PSGの実施件数は年間約8万件にとどまっています。InSomnografの計測技術はもともと、研究用に生まれたアイディアですが、事業サービスとしてたくさんの人に届けてこそ意味があると考えたんです」
また、S'UIMINの事業は、社会貢献とともに睡眠の謎の究明に寄与する活動としても、柳沢さんは位置づけている。
「InSomnografの計測結果は匿名化されたビッグデータとして蓄積され、それが睡眠の謎を解き明かしていく上での財産になる。睡眠に関する研究が進めば、眠りの悩みの改善に向けた新たなソリューションを生み出していくことにもつながっていきます」
柳沢さんが解明しようとしている謎とは、いったいどのようなものなのだろうか。「睡眠研究におけるビッグ・クエスチョン」として、次の2つを説明してくれた。
「睡眠中に脳のメンテナンスが行われていることはよく知られていますが、そもそもなぜ、メンテナンスのために『睡眠』という形で意識をシャットダウンさせる必要があるのかは、分かっていない。これが1つの目の謎です。そして2つ目は、『眠気』のメカニズム。覚醒・睡眠のスイッチングにオレキシンが作用していることは明らかにできましたが、そのオン・オフに至るまでに溜まっていく『眠気』とは、脳が一体何をどのように処理しているものなのか。これもまた、解明されていません。誰にとっても身近な睡眠ですが、根源的なシステムは分かっていないことだらけなんです」
このように、研究者としての想いを熱く語る柳沢さん。最後に睡眠との向き合い方について、私たちにアドバイスを送ってくれた。
「大切なのは、『眠りを考えることは、ウェルビーイングを考えること』という意識です。眠りを味方につけて、より充実した暮らしにつなげてください」
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三菱電機イベントスクエア METoA Ginza
「from VOICE」
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