「ないならうちがやる」という基本姿勢 父と子で切り開く牡蠣漁師の新時代
宮城県南三陸町志津川。
三方を囲む山々から流れ込む栄養分によって、昔から牡蠣以外にもワカメやホタテ、ホヤなどの養殖業が盛んに営まれてきた地域です。
父の工藤忠清さんと、息子の広樹さんはともに牡蠣漁師。
広樹さんの祖父にあたる清徳さんも御年81歳でありながら、今も元気に加工場に立つ、親子三代続く牡蠣漁師一家です。
2017年、広樹さんは「株式会社南三陸オイスター」を設立しました。その名が示す通り「南三陸産の牡蠣」を「作って売る」会社です。
「剥き身はやりません」に賭けてみた
「株式会社南三陸オイスター」の主な出荷先は、オイスターバーに殻付き牡蠣を納品する卸会社。広樹さんは父の忠清さんとともに牡蠣を生産するところから、箱詰め、出荷まですべての工程を自分たちで行なっています。
「ただつくるだけじゃなくて『こういうのを作ってほしい』というニーズに応えるために新しく会社をつくりました。」(息子・広樹さん)
日本の牡蠣のほとんどは、剥き身の状態で流通されています。殻の形状や、一粒ごとの身の大きさを揃える必要があまりないため、キロ売りするのに向いています。
一方、工藤さん親子が作っているのは、殻付き牡蠣のみ。形の良い牡蠣を成育途中で選別し、大きさと身入りを均等にするために籠入れを施します。
震災から少し経った頃から、国内ではオイスターバーやカキ小屋の出店ラッシュが続き、カジュアルに牡蠣を食べられる飲食店が増えました。
この牡蠣の需要増に加え、剥き身よりも高値で取引できるメリットに気付き、高品質の殻付き牡蠣を、付加価値をつけて販売しようと、いち早く手を上げたのが工藤さん親子です。
「売り先を変えたら、みるみる売れるようになりました。今では生産が注文に追いつかない状況です。まだまだ伸びしろがあると思っています。」(息子・広樹さん)
最近はシングルシードという牡蠣の生産方法にも挑戦しています。砂のようにまだ小さい種牡蠣を、一粒ずつバラバラの状態で目の細かいカゴに入れて育てる養殖法で、ころりとした丸みのある牡蠣に育ちます。
「息子の会社は、名前が仕事を表していて、間違いなく牡蠣を作っている会社であることが伝わります。自ら代表となり責任をもってやるのと、親がいて、なあなあでやるのとでは違いますし、息子の今後のためにもなるでしょう。」(父・忠清さん)
背中を押した父もまた、1%の可能性を追っていた。「昔はよかった」を打破するDNA
父の忠清さんも、28歳の時に脱サラし、生産した牡蠣を自ら出荷する会社を立ち上げています。共同処理場で剥き牡蠣を出荷する従来の流通の形に疑問を感じ、築地に販路を求め、ネット販売などにも挑戦してきました。
南三陸町志津川でも、99%の牡蠣が剥き身の状態で出荷されています。その中で、殻牡蠣を取り扱っているのは工藤さん親子のみだそう。
牡蠣を取り巻く環境が、バブルの崩壊、漁師の高齢化などによって低迷しかける度に、忠清さんのまわりでは、「昔は売れていたのに」という声が聞こえてくるようになりました。
そんなため息のような声を蹴散らすかのように、
「このままじゃおもしろくない」と自ら販路を開拓し、「剥き牡蠣はやらない」と決断したのは、忠清さんでした。
忠清さんは、まさに1%の可能性を見いだし、まっさきに挑戦してきた張本人なのです。
「(忠清さんの)父も『やるんだったらやれ』と応援してくれました。他と同じことをやっていたら面白くないよな、って言い出して」(父・忠清さん)
「じいちゃん《そういう》人だよね。」と広樹さんも続けます。
祖父から父へ、そして次の世代へ。
誰もやらないことを、誰よりも早くやる。
とことんやるなら、背中を押す。
《そういう》精神が、工藤家には脈々と受け継がれているのです。
誰もやらないことに立ち向かうために大事なこと
オイスターバーのような飲食スタイルが定着しつつあるとはいえ、殻付き牡蠣の市場は、それほど大きいというわけではありません。
だからこそ信頼関係が大事なのだと、工藤さん親子は言います。
通常、剥き牡蠣の出荷は10月から5月までですが、工藤さん親子が育てる殻付き牡蠣は、年間を通して生産、出荷されています。
夏場に供給しようとすると、安全性を保つのは簡単なことではありません。怖がって尻込みする生産者も少なくないのです。
しかし工藤さん親子は、海水の温度を調整する機材を投入し、浄化方法の研究をするなど、牡蠣を健康的で衛生的な状態に保つためのノウハウに絶対の自信をもっています。
「マネをしようと思っても、簡単にできることではありません。作り手として『間違いない』と言えるようにすることが大事。責任をもって売ってくれる卸売会社に卸し、私たち生産者は安全なものを提供する。牡蠣を売るにはこういう信頼関係が重要です。」(父・忠清さん)
レールの先に見えた牡蠣漁師の可能性
広樹さんは弱冠31歳。
下に弟と妹がいる、いわゆる漁師家系の長男坊です。
小さい頃から祖父や父親に連れられ、海の仕事を手伝うこともありました。まわりの同級生たちも家業を継ぎ、漁師の道に進みました。
当たり前のように「後継ぎ」のレールに乗ってしまっていることを「嫌だ」と思う時期もありました。手伝いをしてはいたものの、本当は、海の仕事を好きになることができませんでした。
「うちは人手不足だから、大きくなったら手伝ってくれるようにレールを敷いていました。ある程度豊かな暮らしをさせないと残ってくれないと思って『車買ってやる』とか言ってそそのかしていましたね(笑)」(父・忠清さん)
すると、広樹さんがほろりと口を開きます。
「でも今は、漁師で良かったと思いますよ」
......本当に?
その疑いは、ひとたび作業場に移動すると、たちまちに消えました。
広樹さんが生き生きとしているから。
さっきまで遠慮がちに言葉を選んでいた広樹さんはどこへいったのか...。高い足場にひょいひょいっと飛び乗り、巧みに機械の操作をしながら、全開の笑顔で種牡蠣やその生産方法について説明してくれます。
「漁師で良かったですよ。だって稼げていますから(笑)」
と、広樹さんは繰り返します。
その目はまるで、宝探しをする少年のようにキラキラしています。
広樹さんは、ただ生活するために漁師をしているのではなく、
「稼ぐこと」をも楽しんでいるのかもしれません。
他の漁師が、水揚げを終えて昼過ぎに解散する一方で、
広樹さんは夕方まで黙々と出荷を急ぎ、スマホやパソコンを使いながら商談を進め、時々東京へ営業にもまわります。
「同世代の漁師仲間と比べると『自分は漁師って感じじゃないな』って思います。」
広樹さんは昨シーズンから、宮城産の牡蠣を世界に発信していく「MIYAGI OYSTER プロジェクト」の一員となり、生産した殻付き牡蠣をマレーシア・UAE・タイなど海外にも出荷するようになりました。
海外でも通用する牡蠣を作ること、そして「自分の新しい作り方」で世界に挑戦すること。これが、広樹さんの次の目標です。
今ドキの漁師は、合理的で、現実的で、
そして、なんだかおしゃれ。
だからこそ、その時代の気分を敏感に察知し、「漁師って感じじゃない漁師」のスタイルを柔軟に選択できるのかもしれません。
父と子で切り開く牡蠣漁師の新時代
お金の残るところには知恵のある人が集まる。
儲かっていそうなところには若い人が集まる。
それに気付くことで何かが変わる。
とは、忠清さんのことばです。
牡蠣を剥いて、みんなと同じことをしていたら、もしかしたら困ることはないのかもしれません。
だけど工藤さん親子のゴールは「食べていける」ではなく、もっと先にあるのです。それが、絶えず視点を変え、調べ、考え、動き、より新しいステージを目指す理由なのでしょう。
「あー。儲かることが分かってみんなに同じことをやられたら、儲からなくなりますね(笑)。」(父・忠清さん)
そしたら。
そしたら工藤さん親子はまた、
「誰もやってないことを一番早く」やり始めるのでしょう?
そのちいさな繰り返しは、やがて牡蠣を取り巻く環境に刺激を与え、若さと、新しい知恵とを兼ね備えたニュータイプの牡蠣漁師像を更新し続けていくのでしょう。
「昔はよかった」なんてことばが二度と聞こえてこないように。
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文佐藤睦美
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撮影高橋由季