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「優しさでは解決しない」障害者差別に、当事者としてどう向き合えるか

コトナル

健常者はなぜ障害者のことを考えなければならないのか──。僕はいま、この命題について考えたい。すごく薄情な、思いやりに欠けた発言に聞こえるかもしれないが、現実には避けて通れない問題だと思うのだ。

なぜなら自分や自分の大切な人の人生だけでも、まあまあ苦しいのである。お金や時間が無限にあるなら話は違うかもしれないが、会ったこともない誰かの問題に首を突っ込むなんて、そう簡単にできることとは思えない。

自分が「当事者」ではないことから来る壁に困っている人は、僕以外にも結構いるんじゃなかろうか。たとえば、僕よりもいろいろな意味で余裕のある人が「障害者のことについて考えよう」となったとして。身近に障害者がいなければ、どう接していいのか、本当のところはよくわからないはずだ。

そんなもやもやを抱えつつ、今回は荒井裕樹さんに会いに行った。

荒井さんは、障害者をはじめとするマイノリティの自己表現が専門の文学研究者。中学生向けに書かれた最新著『障害者ってだれのこと?』では、障害者とは何か、差別とは何かといったそもそもの問いから、丁寧に問い直している。わかりやすく書かれている、だが、読んだ後によりわからなくなる。そんな不思議な本だ。

歯切れのいい説明、耳触りのいい言葉を並べる人より、よほど僕らのもやもやに付き合ってくれそうじゃないか。そう思って、勇気を持ってぶつけてみた。健常者はなぜ障害者のことを考えなければならないのか。

荒井裕樹さん

1980年、東京都生れ。二松学舎大学文学部准教授。東京大学大学院人文社会系研究科修了。博士(文学)。専門は障害者文化論。病者・障害者の自己表現活動や社会運動を研究している。主な著書に『隔離の文学──ハンセン病療養所の自己表現史』(書肆アルス)、『障害と文学──「しののめ」から「青い芝の会」へ』(現代書館)、『障害者差別を問いなおす』(ちくま新書)、『まとまらない言葉を生きる』(柏書房)などがある。2022年、『障害者ってだれのこと?──「わからない」からはじめよう』(平凡社)と『澟として灯る』(現代書館)を刊行。『第15回(池田晶子記念)わたくし、つまりNobody賞』を受賞。

障害者差別の「当事者」とは誰か

── 障害者の問題について「当事者ではないから適切な接し方がわからない」という人が、結構いるんじゃないかと思うんです。今日はその辺のもやもやについてお話ししたいと思い、荒井さんに会いに来ました。

まず「当事者」という言葉は気をつけて使う必要があると思っています。「当事者」というと、ある問題を特定のサークルの中に囲ってしまうようなところがあるでしょう? たとえば「女性差別の当事者」というと、女性だけを指すように錯覚してしまう。実際は女性を差別するのは男性、あるいは男性社会だったりするはずなのに、です。

社会は生態系みたいなもので、いろんな問題が複雑に絡み合っています。その中で起きる問題も、ボーダレスにいろいろなところに波及するもの。それが最近は、まるで特定の人たちだけの問題であるかのごとく捉えられている。「当事者」という言葉が、そうやって問題を括る言葉として使われているように思うんです。

── 問題を括る言葉として。

「当事者」という言葉がここまで当たり前に使われるようになったのは、実はここ20年くらいの話です。私が大学院生だったころに岩波新書から出た『当事者主権』(中西正司・上野千鶴子、2003年)という本がきっかけの一つになったと思います。タイトルが示すように、もともとの使われ方は違います。

ある問題に関して「その問題で困っている人たち抜きに決めないで」「その問題で困っている人たちがイニシアチブをとって考えよう」という文脈で使われていたのが「当事者」という言葉。それがいまでは「この問題はこの問題の当事者だけが考えればいい」とか「ややこしい問題は当事者の中で処理してくれ」とかいった使われ方になっているような気がします。これはあまり良くないな、と。

── 荒井さんは著書『障害者ってだれのこと?』の中で「ことばの当事者性」というかたちでこの言葉を使っています。そこにはどんな意図が?

「この社会における自分の存在とは何か」「自分の立ち位置はどういったものか」。そういうことを、もっと考えてもらいたい、と提案したつもりです。

── どういうことでしょうか?

社会の中にはそういったことを考えなくても生きていける人と、考えさせられながら生きている人がいます。障害者をはじめとするマイノリティは、普通に生きているだけで「なぜあなたはここにいるのか」とやたらと説明を求められる。一方、マジョリティはそういう説明を一切求められない。というか、考えたり説明したりしなくてもその場にいられる人のことをマジョリティと呼ぶのでしょう。たとえば、皆さんは電車に乗る時に事前に駅に連絡しますか?

── いえ、したことがないですね。

そうでしょう。僕もしない。でも「事前に電話しろよ」と言われてしまう人がいるわけです。そういう社会の仕組みになっている。そのことについて、「あなたはどう思いますか?」と僕は問いかけたい。

自分が生きているこの社会の仕組みが、誰かにとってすごく生きづらいものになっているのだとしたら──。それについて「自分はどう思うか」という視点が、差別について考える上ではすごく大事だと思うのです。「当事者性」というのを、僕はそういう言葉に変えたかった。

優しさや思いやりで差別は解決しない

── 著書にも「差別について考えることは、社会について考えることでもある」とありました。

僕はかつて、障害者差別と闘い始めた運動家たちを取材したことがあるのですが、ある人に言われたのは「思いやりや優しさもまた差別だ」「すごく怪しいものだから信用するな」ということでした。この問題を勉強し始めたばかりの僕には、この言葉がとてもショックだったんです。差別は優しさや思いやりが足りないから起きるものだと思っていたから。でもその人は「それは違うぞ、荒井くん」と言った。

── 思いやりや優しさのなにがいけないんですか?

だって、世の中が苦しくなって他者を思いやる余裕がなくなったら、差別はあっても仕方のないことになってしまうじゃないですか。その人は戦前生まれの障害者だったから、戦争の時、オイルショックの時、誰も障害者のことを守ってなんかくれなかったという現実を身をもって経験していたんです。

── なるほど。だから社会の問題として捉える必要がある。

そうです。それに、差別が思いやりや優しさで乗り越えられるものだとしたら、マイノリティはマジョリティに優しくしてもらうために、機嫌を伺いながら暮らすことにもなってしまう。誰かの顔色を伺いながら生きるのは、誰だってしんどいですよね。そんなしんどさを国レベル、社会レベルで誰かに押し付けるのか? という話で。だからそうではなく、もっと社会の問題、社会の仕組みの問題として考えていこうと言っているんです。

── 思いやりや優しさで解決しようとすると、むしろ問題の本質を隠してしまいかねないとも言えますね。

ただ、たしかに社会の仕組みの問題ではあるのですが、「ぜんぶ社会のせいだよね」としてしまうと、これまたうまくいかない。

── と言いますと?

一人ひとりの「私はこう思う、感じる」という感覚が抜け落ちてしまうから。社会の中に「無色透明の私」のようなものがいて、なんとなく「社会が良くなったらいいね」というぼんやりした話になってしまう。でも、私たち一人ひとりは決して「無色透明の私」のような存在ではなく、その社会を動かしている歯車の一つ一つですよね。

だから、社会の問題ではあるのだけれど、そういう仕組みになっている社会の一員である自分とはなんなのか。そのことについて自分はどう思うのか。最終的には「一人ひとりの私」にはね返るかたちで、社会について問う必要があるんじゃないかと思うのです。

心のざらつきと向き合うことから

── 障害者差別は社会の問題であり、一人ひとりの問題でもある。そうだとすると、具体的にはどうアクションすればいいのでしょうか?

ここで「こうすればいい」と答えられるとかっこいいし、本も売れるのでしょうが、なかなかそれが難しくて(苦笑)。そんな中でも僕がよく提案するのは「一回、自分の気持ちを整理してみよう」ということです。

── 自分の気持ちを整理してみる。

2021年4月に起きた伊是名夏子さんの問題をご存じでしょうか。旅先でエレベーターのない無人駅を使う必要があった伊是名さんが、障害者差別解消法を根拠に駅員によるサポートを求めたところ、「弱者であることを武器にしている」などと言われて炎上する結果になった。また2017年6月には、車椅子ユーザーの木島英登さんが格安航空のバニラ・エアに乗ろうとした際に搭乗拒否され、階段式タラップを這ってよじ登るという出来事がありました。たとえばこうしたニュースを耳にした当時、あなたはどう感じました?

── 最初は「サポートしてあげればいいのに」と思ったと思います。その後、ネット上で「あれは障害者のパフォーマンスだ」という意見を目にして「ああ、そういう見方もあるのか」と思ったことも覚えていますね。

どう感じるかは人それぞれですが、そうやってある問題を前にしたら、いろいろと「感じる」ことや、「気持ちがざらつく」ことがあるじゃないですか。そんな時にはぜひ「なぜこれで自分の気持ちがざらつくのだろうか」と問い返してみてほしいんです。なに不自由なく電車や飛行機に乗っている自分がいる。一方で同じことをするだけで怒られたり周囲とトラブったりしてしまう人がいる。この違いはなんなのかと、一度立ち止まって考える。

── 立ち止まって考えることから。

僕自身もそうでした。障害者差別の問題について研究を始めた当初、「青い芝の会(*1)」という障害者運動団体が掲げる「我らは愛と正義を否定する」という言葉の意味がわからなかった。意味がわからないどころか「なにを言ってるんだ、この人たちは」と言いようのない不快感があったんです。

でも、「なぜ僕は、愛と正義を否定する障害者が不快なんだろう」と立ち止まって考えてみた。そこから歴史を調べ、実際に会い、話を聞いたら「なるほど、そういうことだったのか」と合点がいった。改めて自分の感覚と照らし合わせてみて、最終的には「この人たちの言っていることのほうが理がある」と思ったのでした。

── 立ち止まって考えてみたところから、行動につながっていった。

もちろん、ここまでしているのは僕が研究者だからで、すべての人に同じことをやれとは言いません。ただ、心のざらつきのようなものが起きた時、「なぜ?」と立ち止まって考えることはしてみてもいいのではないかと。

── 本には「差別に対してちゃんと怒れる社会を目指したい」ともありました。「立ち止まって考える」より踏み込んだ表現の印象ですが、ここでいう「怒り」とは?

伝えたいのは似たようなことです。怒り方にはいろいろとあります。どれが正しい怒り方ということはなくて、理不尽なことに遭遇した時に、割って入れる人もいれば、立ちすくんでしまう人もいる。それでいいと思うんです。人それぞれできることは違うのだから。ただ、立ちすくんでしまう人であっても、その理不尽を許したくないと感じたならば、その感情としっかり向き合おうということを僕は言いたい。

── それが「怒る」ということ。

「理不尽な感覚に染まらないでいよう」というか「心を麻痺させないでいよう」というか。「きちんと傷つく」という言い方でもいい。傷ついたり、苛ついたりしたのなら、その感覚から考えることを始めても良いのではないか。そういうことを伝えたかったんです。

合理的に考えてはいけない部分がある

── この社会の中の自分とはなんなのか。そうやって自分に問うことから始めてみようというお話は響きました。ただ、考えないでもいられる人に対して「考えて」と言うのはなかなかに難しい。「あなただっていつか障害者になり得るのだから」という説明はわかりやすいですが、功利的すぎて違和感が残るのも事実です。

その指摘は核心をつかれた気がしていて。思うに差別の問題というのは「二正面作戦」で考えなければならないのでしょう。

── 二正面作戦?

一つは、おっしゃるような説明の仕方です。いまの世の中にはある特定の人たちだけに不利に働くルールがある。そのルールが誰に適用されるかはその時々の雰囲気で決まっている。そういう世の中で生きていくのは怖くないですか? と。要するに「この問題は誰にとっても他人事ではないのだ」という合理的な説明の仕方です。でも、それだけでは足りない。

一方では、障害者差別をしてはいけないということについて、そもそも合理的な説明をしなければいけないのだろうか? という話もあると思うんです。「だってダメじゃん!」「だって嫌だよね?」というような。

── ああ、わかります。合理的な説明以前に「ダメでしょ」という部分。

「重度の障害を持った人と共に生きるための、共生の思想が必要だ」と言う人がいる。でも、僕はそれ、半分は賛成だけど、もう半分は反対なんですよ。だって、僕自身はそんな社会的な思想なんてものを意識せずともこの社会で生きられている。でも、別の誰かはそういう思想的なもので「生きる根拠」を正当化しないと生きられないというのは、なんだかおかしな話でしょう。

── おっしゃる通りですね。

だから、合理的に考えて説明しないといけない部分はある。でも一方には、合理的に考える必要なんてない部分というか、考えずとも「おかしいでしょ!」という部分もある。僕自身はこうした二つを併せ持って、この問題と向き合っていますね。

── 以前、介助をしている人に「なんでそんな大変なことができるんですか?」と聞いた時のことを思い出しました。その人は「なんでそんな質問してくるの?」と言わんばかりのポカン顔だった。合理的な説明はできないのだけれど、それでもやっていることって、結構あるのかもしれないですよね。

その感覚は実はとてもよくわかって。僕も学生のころに外出介助のボランティアをやっていたんです。要介助者から、当日になって「今日の午後空いている?」と連絡がくる。いまの感覚で言ったらありえない依頼の仕方かもしれない。でも、当時の僕は学生で時間もあったから、すぐに電車に飛び乗って駆けつけていた。振り返って「よくもまあやれていたな」と思うわけですが、あのころはそれが割と楽しくもあった。あまり深く考えずに体が動いていたところがあります。

── 人を行動に駆り立てるのは合理的な理由ばかりじゃないと。

障害に限らず、最近はなにかにつけて説明を求めすぎているように思うんです。甲子園の選手宣誓だってそう。子どもたちが「人々に夢や勇気や感動を与え~」とか言っている。大人として、子どもたちが「意味」とか「役割」を必死に背負い込もうとする姿は、見ていて「しんどいな」と思います。「好きだからやる」「やりたいからやる」で十分なはずなのに。そこまで言わないと説明した気にならないプレッシャーを、大人社会は子どもたちに押しつけているのかもしれない。

── なんでも説明しなければならないのはたしかにしんどい。でも、言わないと伝わらない側面もある。だから二正面作戦なんですね。

そう。そしてその二つの「正面」は矛盾していたとしてもいい。「建前としてはこれ」「でも本音はこっち」。それでいいのではないかと思うんです。

この割り切れなさを噛み締めて

── 最後にもう一つ。障害者差別を社会の問題と捉えるとして、実際に解決を目指す上ではなにを優先するのかという問題に直面しますよね? 困っている人が多い問題から解決を図るのか、それとも人数としては少数でも、すごく困っている人がいる問題から解決を図るのか......。

なにを優先すべきかという問題は、障害者差別問題を考える上で実はすごくセンシティブです。わかりやすい例で言えば、どの駅からエレベーターをつけていくか。効率から考えれば、利用率の高い駅、近くに福祉施設のある駅から、となる。実際そうなっているのですが、ただ、そうすると必然的に利用率の少ない駅は後回しになってしまう。そこも車椅子ユーザーが使うかもしれないのに。

── どう考えればいいのでしょう?

ここにも二正面作戦的なところがあると思っていて。現実問題として効率的に片付けなければならない側面はたしかにある。でも、一方で効率という価値観には一歩踏みとどまってほしいとも思うんです。なぜなら、障害者というのはそもそも「効率が悪い」という理由で後回しにされてきた人たちだから。なんでも「効率」と言われると困ってしまう人がいることは知っておいてほしい。効率は踏まえなければならないけれども、効率だけで押し通してくれるなということは強調しておきたいと思います。

── 「本音と建前」はネガティブに言われることも多いですが、実際にはそうでもしないと向き合えないことがあるんですね。

障害者運動の勉強をしていて面白いなと思うのは、昔の障害者運動には二正面作戦的なところがやはりあったということです。一方には「権利、制度、お金が必要だ」という人。もう一方には「いや、それよりも理念や哲学の方が重要だ」という人。その二つが議論しながら進んできたのが日本の障害者運動の歴史なんです。

── どういうことでしょうか。

たとえば「障害者差別解消法」という法律がありますが、そういう法律が「必要だ」という人がいる一方で、「いや、必要ない」という人もいたんです。「法律が必要だ」という主張はわかりやすい。では「必要ない」という主張はどういうことかというと「法律がないと、差別するなと言えないのか」、あるいは「ルール化されると、法律の条文ばかり見て、実態に目が向けられなくなるぞ」という主張です。

── たしかにありそうな話です。

実際、そうなってしまっている部分もあります。ただ「差別解消法」という法律があると、やはり便利だし心強いんですよ。たとえば乗車拒否にあった時。「いや、これは解消法違反ですよ」と言えるので、すごく助かるところがある。

このように「必要がある」という現実的な部分と、理念や哲学の部分、その二つがバランスを取り合ってやってきたところが日本の障害者運動にはあります。けれども、いまはそのバランスが崩れていないだろうかというのが僕の問題意識。わかりやすい効率や利益ばかりで、もともとの理念が置き去りにされている気がするのです。

── 本の中でも差別の問題は「安易に答えに飛びつかないで、考え続けることが大切だ」とおっしゃっています。二正面作戦というと歯切れが悪いように聞こえますが、その歯切れの悪さ、居心地の悪さを含めて受け入れなくてはならないのだと感じました。

本の作りとしても「読んだ後のほうがわからなくなる本」を作ってみたかったんですよ。いまはテレビを見てもSNSを見ても、「わかりやすさ」が歓迎されているように思います。世の中はこぞって「わかりやすさ」を追い求めているけど、だからといって僕らの「生き心地」が良くなっているかというと、決してそんなことはない。これって、現実の世の中がそんなに割り切れることばかりじゃないからでしょう? 調べれば調べるほど、わからなくなることがある。障害の問題もそうです。僕だって、知れば知るほどわからなくなっている。

── わかるほうが安心かも知れないですけど。わからないからこそ知ろうとする側面もありますしね。

特にこの本は中学生向けに書いた本だから。中学生というのは多感な時期ですよね。仮にいじめの問題があったとして、なんとかしたいなって考えてはいても、具体的なアクションを起こせなかったりして悩む子どももいると思うんです。そういう子に対して、僕は「勇気がねえな」とはとても言えない。

差別問題って「じゃあどうしたらいいのか?」を考えるのが本当に難しい。しんどいし、怖いし、関わり合いたくない。そんな気持ちも分かるんですよ。でも、その「しんどい」という心のざらつきは、自分のどこかにとっておいてほしい。そこから世の中のことを考える手伝いをしたい──。この本は、そういう思いを込めて書いたつもりだし、僕自身、そういう思いに寄り添える研究をしていきたいです。

  • 写真篠原豪太

    執筆鈴木陸夫

    編集日向コイケ(Huuuu)

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