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豊かな未来のきっかけを届ける

豊かな未来のきっかけを届ける

二度と帰らないと思った蛤浜に戻った理由。震災を乗り越え、豊かで幸せな暮らしを次代へ。

another life.

笑顔の亀山さん

宮城県にある人口10人にも満たない集落で、「暮らし」にまつわる事業を展開する亀山さん。地元で教師として働いていたとき、東日本大震災で被災。妻子を失いました。失意の中にいた亀山さんが、故郷に戻ることを決めた理由とは。お話を伺いました。

海と魚と蛤浜が好き

宮城県石巻市の蛤浜(はまぐりはま)で生まれました。蛤浜は、牡鹿半島にある10世帯にも満たない小さな集落です。両親ともに地元が大好きで、母は「蛤浜が一番良いんだ」と、父は「将来的には人が集まる場所になる」と、浜の素晴らしさを語っていました。僕自身も、地元の雰囲気が大好きでした。

漁師が多い地域で、父方も母方も親戚はほとんど漁師でした。僕も海が好きで、時間があれば祖父と海に出て魚を獲ったり、釣りをしていました。休みの日は父の魚屋を手伝い、いろいろな魚を見るのが楽しみでした。

海も魚も大好きだったので、将来は漁師になりたいと思っていました。ただ、親からは「これから漁業は大変だから、公務員になりなさい」と反対されました。そこで、公務員として漁業に関われる、水産試験場の研究者になりたいと考えるようになりました。

漁師の祖父が「昔はいっぱい魚いたんだ、ここ」と言っていたので、研究者になって昔のように環境をよくできたら、魚が増えて、釣りがもっと楽しくなるんじゃないかとも思ったんですよね。

栽培漁業を学ぶため、水産高校に進学。卒業後は、水産を学べる宮崎県の大学へ入りました。

研究者から、教師の道へ

研究者になるため勉強しましたが、大学3年生頃になると、研究が自分に合わないことに気づきました。研究は、試験管とにらめっこしたり、魚について机で勉強をしたりする時間ばかり。海に出たり、魚と触れ合ったりする時間はなく、自分がやりたいこととは違うと感じました。

研究よりも興味を持てたのは、教育でした。母校の水産高校で教育実習をしたとき、久しぶりに海に出て「やっぱこれだよね」と思いましたし、生徒と関わるのも面白かったんです。特に、高校時代に所属していた空手部の顧問の仕事にやりがいを感じました。

空手部は、僕がいた頃からかなり厳しい部活でした。毎日地獄のような特訓をするんです。そんな環境なので、ある日、練習に耐えかねた部員の一人からやめたいと相談されました。その気持ちはよくわかるので、現役時代は僕も毎日やめたいと思っていたことを話しました。すると、その子が退部を踏みとどまってくれたんです。しかも、すごく感謝されたんですよね。そのとき、人の人生に関わるのはすごく面白いと思ったんです。

研究室で試験管と向き合っているよりも、海に出たり、人とやりとりをしている方が自分には向いていると思いました。

ただ、教育よりももっと楽しかったのが、大学の仲間と組んだバンドでした。プロミュージシャンを目指し、大学生活のほとんどの時間をバンド活動に注ぎ込んでいたんです。活動を続けるため、親に宮崎の大学院へ進学したいとお願いしました。しかし、地元に戻ってくるよう言われてしまったんです。親にお金を出してもらって学校に通っているので、帰らないわけにはいきませんでした。

帰ることが決まったとき、教員になると腹をくくりました。これだけやりたかったバンドをやめるんだから、絶対に教員になってやろうと。

それから2年間、石巻で大学院に通い、地元の水産高校の教員になりました。

震災と津波が、家族も故郷も奪っていった

高校では、食品科学を担当して製造や衛生管理、商品開発などの授業をしたり、柔道部の顧問を務めたりしました。新しいことばかりで大変でしたが、さまざまなチャレンジを繰り返す楽しい日々でした。

そんな毎日を過ごしていた2011年3月11日、かなり大きな地震がありました。「これ、やばいな」と思って。その日は入試の合否判定会議があり、学校に生徒は数人残っているだけ。慌てて海岸まで走らせていた柔道部の生徒を車で迎えにいきました。探しても見つからず学校に戻ると、すでにみんな避難していると聞き安心しました。そのあと津波がやってきて、僕も避難しました。

蛤浜の高台の家に、もうすぐ子どもが生まれる予定の女房がいるはずでした。翌日津波が引いたあと、急いで女房の元へ向かいました。

そこで見たのは、壊滅した街でした。車はひっくり返り、家はぶっ壊れて、その辺に亡くなった人が転がっている。まるで映画のような世界でした。家に行くと、いるはずの女房はおらず、7kmほど離れた実家を探しにいきました。お義母さんが玄関先で亡くなっていました。知らない人も津波にのまれて流れてきていて。壮絶な状況なのに現実離れしすぎて涙も出ませんでした。ただ必死で、いなくなった女房を探す毎日が3週間ほど続きました。
結局遺体安置所でみつけ、女房、義母、義祖父母の4人を津波で亡くしました。

その後、壊滅した蛤浜で暮らすのは難しかったので、石巻の街中に引っ越しました。もう二度と、蛤浜に戻るつもりはありませんでした。

この浜が一番きれいだよ

震災から1年ほど経ったある日、テレビで蛤浜の区長さんが話しているのを見ました。「漁師が一人になってもここでやっていく」。その言葉を聞いてハッとしました。蛤浜のことが気になって、様子を見にいくことにしました。

久しぶりの蛤浜はまだがれきだらけで、住民とボランティアの人たちが一緒に撤去作業を進めていました。その中にひとり、ドイツから来た人がいました。話をしてみると「世界中いろんなところを見に行ったけど、この浜が一番きれいだよ」と言われました。

僕の中では、蛤浜は壊滅して、美しい砂浜も無くなってしまいもうダメだと思っていました。けれど、それでもここを良いと言ってくれる人がいる。そのことに驚きました。

思えば、子どもの頃から両親ともに浜の魅力を語っていました。僕自身も、他の場所で暮らしていても、戻ってくるならここがいいなと思っていたんです。

蛤浜は、お世話になった人が暮らす場所であり、僕のルーツでした。困っている人たちの力になりたい。自分のルーツを無くしたくない。そんな想いが湧き、ここに戻ると決めました。

震災から1年後の3月に、持続可能な浜をつくることを目的に蛤浜プロジェクトを立ち上げました。人が少なくなってしまったため、まずは暮らし、産業、学びの3本柱を軸に、交流人口を増やすことを目標にしました。そのために、カフェやレストラン、宿泊施設やマリンレジャーができる場所を作ろうと決めました。

賛同してくれる人はなかなか現れませんでしたが、否定されても、全く気持ちは折れませんでしたね。震災後のショックや落ち込みを、行動することで消化している部分もあったのかもしれません。毎日たくさんの人と会い、前向きな話をすることで、負の気持ちを紛らわせていました。

暮らしを途切れさせないために

3カ月ほど経ったころ「面白いからやろうよ」と言ってくれる仲間と出会い、週末を使って蛤浜の自宅の泥かきやがれきの撤去から始めることにしました。たくさんの協力のおかげで予想より早く片付けることができました。活動の拠点ができたので、まずはカフェを開くことにしました。津波でバラバラになってしまった人が、お茶を飲んで集まれる場所を作りたいと思ったんです。

その頃、学校の生徒と一緒にアメリカに行く機会がありました。日本人が経営している魚屋などの研修です。そこでも、会う人会う人に自分のやりたいことを話しました。日本では馬鹿にされて終わりでしたが、話した人みんなが背中を押してくれました。裸一貫でアメリカに渡って成功した人たちに応援されたことで、自信を持てましたね。

日本語学校を立ち上げた女性には「これは素晴らしいわ、大丈夫。絶対できるわよ」とまで言われました。それまで、みんな「いいね」とは言ってくれるものの「できる」とは言いませんでした。彼女に言葉をかけてもらったことで、できると確信を持てたんです。帰国する頃には、学校をやめて蛤浜での活動に全ての時間を注ぐと決めました。

それまでは、ボランティアや手伝ってくれる地元の人に作業を進めてもらっていて、学校をやめる気はありませんでした。ただ、ボランティアから石巻に移住したメンバーが活動の中心となり、縁もゆかりもない蛤浜のために全力を尽くしてくれているのを見て、自分だけ生活を担保された教員をやりながら、誰かに任せていてはダメだと思ったんですよね。アメリカで刺激を受けたことで、教員をやめて本気でやると心を決めました。

住む人が幸せでなければ意味がない

震災から2年後の3月、泥やがれきを片付けた自宅を使って、カフェをオープンしました。多くの人に関わってもらったことと、被災した限界集落にカフェができたというニュース性から、口コミやメディアで噂が広まり、多くのお客さんが来てくれました。それに合わせて、従業員を雇い、客席やメニューも増やしました。

何もなくなってしまった地域に、雇用を生むこと、交流人口を増やすことが正義だと思って、みんなで頑張りました。カフェだけでなく宿泊施設やレジャー施設も作るため、近隣の土地を借りて事業を拡大していきました。

しかし、カフェを作って2年目、周囲から不満が爆発しました。土地を貸してくれた人に、「うちの山がこんなになるなんて思わねかった」と言われたり、浜に車があふれてしまいクレームが来たり、ボランティアがいなくなった近隣の集落から不満がでたり。「余計なことをやんな」と怒られ、「もうちょっとゆっくり落ち着いてやってけろ」と諭されました。

僕たちが描いた理想と、住んでいる人たちの理想が違っていたんです。

地元のために良かれと思ってやってきたのに、という思いはありました。でも、この取り組みはもともと、お世話になった地元の人たちのために始めたものだったはず。地元の人が喜ばない形になっているなら、それは自分たちのエゴ。1人でも2人でも反対する人がいたらその意見は尊重すべきで、住む人みんながハッピーでないならやる意味がない。そう考えて、急拡大するのではなく、ゆっくり開発を進める方針に切り替えました。

土地を借りるのはやめ、自分の土地だけを活用することにし、メディアへの露出も断りました。交流人口を増やすことから、暮らしの豊かさの追求へと目標をシフトしたんです。

それからは、浜の暮らしが少しでも豊かになるよう、地域課題を解決する事業を作っていきました。例えば、増えすぎた鹿の駆除や鹿肉の活用を進めたり、手入れされていない山林の木々を伐採して家具を作って販売したり。山や海でのアクティビティも徐々に充実させていきました。

豊かで幸せだと感じられる浜があればいい

現在は、カフェの経営に加え、鹿肉の活用や水産・山林の資源の活用、マリンレジャーなど地域に根付いたさまざまな事業にチャレンジしています。

子どもの頃から憧れていた漁師にもなりました。もともとは漁師の高齢化という課題感から始めたのですが、自分で漁業ができるのは最高だと感じています。これまで企画側に回ることが多く、実行は他の人に任せることが多かったので、自分自身がプレイヤーとして動けることがすごく楽しいんです。自分が獲ったもの、こだわって作ったものを、誰かが喜んで食べてくれるのは最高ですね。

これまでは石巻の家から蛤浜に通っていましたが、良い出会いがあり再婚したことをきっかけに、再び蛤浜に移住しました。女房は、カフェで料理を作り、休みの日には一緒に漁に出ています。獲れる魚や浜の料理に感動し、僕よりも浜の暮らしを楽しんでいますね。ここで生まれ育った僕が当たり前に感じていたものの価値を、再発見できる機会をくれた女房に感謝しています。

今は、これまでやってきたことを一度整理して、もう一度ビジョンを描き直すタイミングだと感じています。これからは、シンプルに、みんなが豊かで幸せだと感じられる浜を作りたいですね。ここに関わる誰もが、豊かで幸せだと思える場所になったとき、結果としてここでの暮らしが持続可能で次代に残るものになるのだと思います。

誰かの課題を解決するとか、社会的な大義名分よりも、いまを豊かで幸せだなと思える人が増えればいいと思います。

問題を拾い集めたらキリがないですけど、足元にある豊かさに気づくことができるかどうかが大切なはず。いろいろな人とつながって活動する中で、そう思えるようになりました。まずは自分が楽しみながら、ここで暮らしていきたいですね。

亀山 貴一さん/一般社団法人はまのね代表理事
宮城県石巻市蛤浜で生まれる。東日本大震災で大きな被害を受けた故郷を再生するため、2013年3月にカフェ「はまぐり堂」をオープン。2014年4月に一般社団法人はまのねを設立。マリンレジャーや、水産業・林業・狩猟の6次産業化などの事業を展開する。2015年2月には一般社団法人おしかリンクの立ち上げをサポート、牡鹿半島の情報発信やツーリズムなどにも取り組んでいる。
  • another life.(アナザーライフ)|一日だけ、他の誰かの人生を。https://an-life.jp/

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