ビジネス上のリスク、キャリアの分断 経団連が選択的夫婦別姓の早期導入を求めた理由 #家族とわたし
今年6月、(一社)日本経済団体連合会(経団連)は「選択的夫婦別姓」の早期導入を求める提言書を公表した。この問題では経団連として初めての提言。事前に行ったアンケート調査では、ビジネスの現場で使う「通称」ではさまざまな不都合や不利益があることがわかった。なぜこのタイミングで提言を出すことになったのか。今回の提言を取りまとめた経団連ソーシャル・コミュニケーション本部統括主幹の大山みこさんに話を聞いた。(文・写真:ジャーナリスト・森健/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部)
女性活躍が進展して見えた阻害要因
── 今回、経団連が「選択的夫婦別姓」早期実現の提言を出すことになった背景を教えてください。
「安倍政権時代、女性活躍が成長戦略の柱として掲げられ、経団連も持続可能な成長に不可欠な経営戦略として女性活躍を推進してきました。また、その背景となるDEIにも取り組んできました。多様性(Diversity)、公平性(Equity)、包摂性(Inclusion)。このDEIがあることはビジネスにとってもイノベーションにつながるからです。ところが、10年近く経って、女性活躍が進展してみると、というより、女性活躍が進展してきたからこそ、女性活躍を阻害する社会制度があることがわかってきました。その一つが夫婦同氏制度に起因する(結婚後の)旧姓の通称使用の問題でした」
── 民法では「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫または妻の氏を称する」(750条)と定められています。その際、妻が夫の姓になることが大半です。そのため、ビジネスの現場では、結婚した女性の多くが「通称」として旧姓を使用しているということですね。
「はい。結婚前の旧姓を"通称"として役職員が使用することを認める企業は、今回会員企業へのアンケートで9割となっていました。かなり浸透していることがわかります。ですが、同時期に行った女性役員へのアンケートでは、その『通称の使用では不都合や不便さがある』という答えがやはり約9割ありました。"通称"が使えても課題があるということです。そうした課題があることや旧姓の通称使用による弊害がアンケートで可視化され、今回の提言に至った次第です」
経団連は1946年に設立された団体で、日本の主たる企業1542社(2024年4月現在)が会員として加盟。経済界の各種課題について、意見の取りまとめや提言書の公表などの活動をしている。
今回の提言に先立って、今年5月、経団連は会員企業にアンケート調査を行った。「役職員の『通称』使用を認めていますか」という問いでは回答企業の91%が通称を認めていた。一方で、その通称では立ち行かない場面が多いことも明かされた。同時に行われた経団連会員企業の女性役員をメンバーとする「女性エグゼクティブ・ネットワーク」へのアンケート調査では、「旧姓の通称使用」が可能な場合でも「何かしら不便さ・不都合、不利益が生じると思う」と答えた女性役員は88%に上った。
アンケートでは「実際に困った経験」に複数の同意が寄せられていた。
「パスポート名と違う」空港やホテルでトラブル
●海外に渡航した際、公的施設・民間施設等への入館時に提示した公的IDとビジネスネームが異なるという理由からトラブルになった。(19名)
●海外に渡航した際、ホテルがビジネスネームで予約されていたため、チェックイン時にパスポートの姓名と異なるという理由からトラブルになった。(26名)
●希望していた金融機関でビジネスネームで口座を作ることや、クレジットカードを作ることができなかった。(26名)
●国際機関で働く場合、公的氏名での登録が求められるため、姓が変わったことが別人格としてみなされ、キャリアの分断や不利益が生じた。(3名)
自由記述でも、そうした声は多数寄せられている。
●銀行口座やクレジットカードなどの名義を戸籍上の氏名へ変更する時の手続きが煩雑。
●海外出張時、コロナワクチン接種アプリを使用しようとしたが、旧姓使用だったため対応できなかった。
●社会的立場を形成した後に離婚したため、仕事への影響を考慮し、元夫の姓を使い続けているが、名前と自分の同一性を実感できない状態にあり、一種の基本的人権の侵害に感じる。
これらの調査を進めたのがソーシャル・コミュニケーション本部の大山みこさんだ。実際の経験に基づく不都合や不利益が明らかになったことは提言をまとめるうえで重要だったという。
── アンケート結果を見ると、女性が非常に苦労されているのがわかります。
「この問題は一見、価値観に関わるように見えますが、経団連がまとめているのは、あくまでもビジネス上のリスクや不利益の話です。だからこそ、経団連として正式に検討の遡上に挙げるとなれば、まずファクトが大事だなと思っていました」
── 「通称」はあくまでも「通称」であって、国内外の公的な証明には使えないわけですね。
「たとえば、女性役員が一人で海外出張に行きました。そこでパスポートの名前の不一致などのトラブルで入国が遅れた。すると、大切な商談の機会を失ってしまうわけです。紙のパスポートに旧姓が併記できるのは確かです。でも、いま入国管理の際、多くの国はパスポートに内蔵されているICチップで照合、処理します。そのICチップには通称はなく、戸籍姓しか入っていません。ICチップは国際基準なので、旧姓までは登録できない。そこでトラブルになるんです」
── 海外で「通称」が使えないだけでなく、同じ社内で通称だけ知られていて、本名を知られていない場合、公的書類で混乱する事例も多数あるようです。
「はい。この制度に慎重な方から『不動産登記も研究論文も旧姓でできる』『このほかにも旧姓の通称使用の拡大や法制化でトラブルは解決できる』とのご指摘がありますが、実際にはあくまで『通称』や『通称併記』という補足的な位置づけです。セキュリティの観点からも国際的通用力には疑問がありますし、アイデンティティの観点からは全く解決されません。また、一つひとつはそれほど大きな問題ではないと思われるかもしれませんが、日常的にこうした障害やリスクを抱えながら、一つひとつの問題に少しずつ心を擦り減らしている現実があります。その思いが、9割近い人たちが、不利益、不便を感じているという回答になったわけで、こうした方々の声を真摯に受け止め、選択肢を拡大していく必要があります」
世界で同一姓の強制は日本だけ
── 振り返ると、経団連が過去に選択的夫婦別姓について積極的に提言をしたことはなく、今回が初めてです。なぜこれまでなかったのでしょうか。
「もともとは、旧姓の通称使用すら認められていませんでしたが、2016年以降、政府が旧姓の通称使用の拡大という旗を掲げたので、経団連も一緒に旗を振ってきたわけです。でも、DEIの考え方が浸透するなか、女性にとって通称使用の拡大だけでは限界があることを経営側も気づいてきた。そんな流れがあると思います」
── ただ、古い資料をさかのぼると、1995年2月、経団連の「女性の社会進出に関する部会」とが発表したレポートもありました。そこでは、1994年に女性の働き方についてアンケートを行っており、「社員からの回答によれば、男性の43%、女性の56%が夫婦別姓に賛成と答えている」という報告もありました。一部に推進する声があったことがうかがえます。
「当時法制審議会では1991年から選択的夫婦別姓の議論がなされ、1996年にその答申が出されました。ですので、経済界として問題意識があったということだと思います。ただ、そのレポートはあくまでもアンケート調査の結果で、経団連全体の方針というわけではないです。その意味で、今回はアンケート調査を行った上で経団連として明確なスタンスを打ち出したというのが大きいと思いますね」
── もう少し具体的に言うと、経団連が積極的になったのは、いまの十倉雅和氏(住友化学会長)が会長に就任してからのように見えます。
「そうなんです。十倉会長自身が、問題意識をもってくれたことは大きいです。経団連が今回提言に至ったのも、経営トップが、女性活躍のサポーターとしてこの問題に向き合ってくれたからです。今年2月の定例会見でも、十倉会長は『女性活躍や多様な働き方を推進する方策の一丁目一番地として、選択的夫婦別姓制度の導入に向けた民法改正法案を一刻も早く国会に提出し議論してほしい』と語っていました」
── もともと関心があったんですね。
「NHKの朝ドラ『虎に翼』で結婚時の姓の話題が出たとき、『あなたの息子が結婚し、妻の姓に改姓したとして、息子に対する愛情は薄れるのか?』という問いがセリフで語られました。十倉会長も朝ドラをご覧になられていて、あの言葉に象徴されると話されていました」
── だとすると、調査から提言発表まではスムーズでしたか。
「ええ。経団連は政策分野ごとに委員会で検討するのですが、ダイバーシティ推進委員会で検討が始まりました。昨年12月以来、さまざまな講師をお招きして議論を深め、過去の法制審議会などの議論も踏まえて、半年ほど精力的に検討を重ねました。その過程でファクトも重要だということで5月にアンケート調査を行い、まとめたものを6月に発表したという流れです」
── 昨今、海外投資家からESG(環境、社会、ガバナンス)投資や人権などについて日本企業への注文も多いと聞きます。この問題でも海外からも注文があったのでしょうか。
「国連の女子差別撤廃委員会(CEDAW)は、2003年、2009年、2016年と再三にわたり、日本に対し夫婦同姓を強制する民法を改めるよう勧告しており、今年10月に8年ぶりの審査が行われる予定です。法務省の調査でも、婚姻時に同一姓を義務付けている国は、いまや世界で日本のみです。そういった点からも、選択的夫婦別姓の導入が必要です」
新首相のもとで議論は進展するか
「選択的夫婦別姓」は1996年に法務省の法制審議会で、導入を含む民法の改正要綱が答申された。だが、当時、この法案に自民党の保守派が強く反対。改正案の国会提出は見送られた。また、司法の場では、2015年、2021年に夫婦同姓は合憲という判断が下され、立法府での議論が期待された。だが、国会では改正法案は取り上げられないまま28年が経過し、現在に至っている。
── 選択的夫婦別姓を拒む人たちは、導入すると家族のかたちが変わってしまうという主張をしています。
「まだ十分な理解が進んでいないように思うのですが、選択的夫婦別姓は『同姓か別姓かのどちらか』を問うているわけではないんですね。"選択的夫婦別姓"という名称の通り、どちらかの姓を選択できるということを問うています。言い方を変えると、『夫婦同姓を強制する社会』か、本人が望めば『別姓も選択できる社会』を目指すのかを問うているわけです」
── 7月のNHKの世論調査では、選択的夫婦別姓に「賛成」が59%、「反対」が24%。その他の世論調査を見ても基本的に賛成が多数になっています。
「選択的夫婦別姓は、国際的に働く女性だけの問題ではありません。姓名は、性別にかかわらず、その人の人格を示すものであり、アイデンティティにかかわる問題。つまり、選択的夫婦別姓はビジネスの世界だけの話ではなく、多くの人にとって、自分事になりうる選択の問題だと思うのです」
── 今年6月、ダイバーシティ推進委員長の魚谷雅彦氏(資生堂会長)は、早期実現を求める提言を小泉龍司法務大臣に手渡しました。大山さんも同行されていましたね。
「面会時、小泉法務大臣には真摯に受け止めていただいた感触があります。様々な意見があるが、大事な問題。過去の法制審議会の議論も踏まえて、一緒に知恵を絞ろうと、予定の時間を過ぎてもお話しくださいました」
── その後、自民党総裁選でも選択的夫婦別姓を政策目標に掲げる候補者も出て、議論にもなりました。新しく首相に選出された石破茂氏は総裁選中、選択的夫婦別姓について言及していましたが、国会の所信表明では語りませんでした。今後進むかどうかはまた不透明です。
「もちろん個々の政治家の方々には考え方の違いもありますが、今回の自民党総裁選で大きな争点としてこの問題が取り上げられ、こうして表立って語られることが重要で、今後に期待をしているところです。この問題は、突き詰めれば、日本が今後どういう国でありたいのかという大きな問いにつながっていると思います。多様な価値観や考え方を受け入れ、多様な選択肢が提示されて、自らの意思で選んでいける社会。そうしたあるべき未来の形の一環として議論されることを期待したいと思います」
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森健(もり・けん)
ジャーナリスト、専修大学非常勤講師。1968年、東京都生まれ。『「つなみ」の子どもたち』で2012年に第43回大宅壮一ノンフィクション賞受賞。『小倉昌男 祈りと経営』で2015年に第22回小学館ノンフィクション大賞、2017年に第48回大宅壮一ノンフィクション賞、ビジネス書大賞2017審査員特別賞受賞。2023年、「安倍元首相暗殺と統一教会」で第84回文藝春秋読者賞受賞。
「#家族とわたし」はYahoo!ニュースがユーザーと考えたい社会課題「ホットイシュー」の一つです。ひとり暮らしの単身世帯が過去最多となり、生涯未婚率も上昇するなか、家族のかたちは多様化しています。また、介護や育児、親子関係など、現代の家族が直面する問題も多岐にわたります。旧来の家族観が変化するなか、「家族」とは何なのか、どうあるべきなのか。さまざまなエピソードや課題をもとに、ユーザーと考えます。