「震災のときも、真っ先に現場へ」知られざる林業従事者の思いと、能登「アテ林業」の未来
2024年は2つの災害が能登半島を襲った。1月に発生した能登半島地震と、9月に発生した豪雨だ。その災害の現場にいち早く駆けつけ、復旧にあたった人々がいる。林業従事者である。
光の当たらない林業従事者たち
「災害復旧の現場には、いつも林業従事者の姿がありました」
そう語るのは、石川県農林水産部の森林管理課専門員である一二三悠穂(ひふみ・ゆうほ)さん。
「災害により土地や施設が被災した場合には、管理者が復旧責任を負うのが原則となります。例えば、道路など公共施設の場合は、管理者である国、都道府県などが復旧事業を発注して、受注した建設業者が復旧します(※)。
森林の多い中山間地域では、復旧工事の現場に倒木はつきものですが、倒れて折り重なった倒木の処置は危険なため、建設業の作業員には敬遠されがちです。そのため、専門スキルを持った森林組合や林業事業体が下請けとして倒木の伐採や撤去を行う場合が多くなります」(一二三さん)
復興には、建材や資材として大量の木材が必要になる。育ててきた地元の木を今こそ復興のために使いたい時期に、一次産業の労働力を土木工事に費やされてしまう。しかし倒木が処置できないと、地域の復旧が遅れてしまう。
災害発生時に林業従事者が置かれていた状況は、そんなジレンマを抱えた、想像以上にハードなものだった。
実際、能登半島地震の際に倒木処理の指揮をとった能登森林組合事業部部長の古坊勝利さんは、当時をこう振り返る。
「地震直後の現場に入って、まず聞かされたのが『燃料も弁当もない』という言葉でした。状況は、ひどかった。避難先のみなさんから支援物資などを分けていただいたり、燃料の確保も苦労しながら少しずつ作業を進めるしかありませんでした」(古坊さん)
電力会社とも協力しながら少しずつ倒木の撤去を進めた森林組合。日々、安全訓練や用具のメンテナンスを行ってきたこともあって、作業中の大きな事故は一件も起こらなかった。
例えば断水が起こると、田んぼが干上がる様子や牛に水をあげることができない様子などはよく報道される。米や肉など、生活に身近な食べ物を生産する農業や畜産、水産などに対しては世の中の関心も高く、支援の動きも迅速かもしれない。
しかし、倒木の撤去作業がテレビなどで映されることはほとんどなく、被災した林業従事者の置かれた状況へ注目される機会も少なかった。
能登を苦しめる人手不足
しかも、復興支援を行う林業従事者もまた、被災者であった。
「能登半島地震から1週間後、多くの職員たちがそのまま仕事を続けるかどうか迷っていました。私は彼ら個々人の状況は理解しつつ『能登復興のために頑張ってほしい。そのためにできる限りのことはする』と言いました」(古坊さん)
古坊さん自身も厳しい状況に置かれていた。
「私は集落の長もしていて、豪雨の前までそこに住んでいました。ただ、地震で被災した上に、豪雨で集落へ続く大きな道が通れなくなってしまって、今は仮設住宅で暮らしてます。今、集落には一人だけが住んでいますが、元の道が戻るまでは5年ほどかかるといわれている。
このように、多くの人が能登には暮らせない、と金沢や他県に移住しました。森林組合の職員も最終的には15%ぐらいがやめてしまいました」(古坊さん)
能登半島全体で見ると2025年の6月までで、人口は約1万人減少。これは統計上の数値で、実際には転出届を出していない人もいるので、実態としてはさらに多くの人が能登半島を出たことになる。半島全体でも人不足のなか、ただでさえ従事者が少ない林業は、より多くのダメージを受けている。
「私たちの森林組合も、国や地方自治体、ゼネコン関係からの仕事依頼がたくさん来るのですが、やむを得ずお断りしている仕事も多いです」と、古坊さん。能登森林組合が管轄する輪島市や珠洲市では、まだインフラ自体が復旧していないところも多い。
「喫緊でも、輪島管内で木を伐採する予定なのですが、まだ二人、人員が見つかっていません。組合本来の業務である林業に戻れているのは能登町だけで、輪島と珠洲では、いまだにインフラ整備に追われている状況です」(古坊さん)
林業従事者の人手不足は、そのまま復興の遅れにつながってしまう。現在、能登森林組合では、石川県内の他の森林組合にも協力を仰ぎながら、なんとか半島の復興を進めている。
能登伝統の「アテ林業」復興の兆しが見えた矢先に......
能登の林業にとって、地震と豪雨はあまりにもタイミングが悪かった。2024年は、能登林業がちょうど盛り上がりを見せようとしていた時だったからである。
昔から能登半島では、「アテ林業」と呼ばれる林業が存在している。ヒノキアスナロという針葉樹(※地元では「あて」と呼ぶ、青森ヒバと同じ樹種)をスギやヒノキのように山に植えて収穫する方法だ。このアテ林業が2023年に「林業遺産」に登録され、さまざまな試みが行われようとしていた。
「全国各地には、その土地の気候風土に即した独自の林業の方法があります。アテ林業も、ヒノキアスナロという樹種の性質や、漆器の産地という能登ならではの条件を活かして発展したと考えられます。
林業遺産は全国の特色ある林業を後世に残すために登録され、また地域の活性化にも一役買っています。能登でも林業遺産を一つのきっかけとして、林業をもう一度盛り上げようと思っていました」(一二三さん)
そんな矢先の災害だったのだ。
そもそも、アテ林業とはなにか。
「アテは石川県独自の林業樹種で、江戸時代後半から能登で本格的に植林が始まったとされ、地域によってマアテ、クサアテ、カナアテなどいくつかのグループがあります。
製材したアテは、別名『能登ヒバ』と呼びます。能登ヒバは抗菌効果が高く、湿気にも強くて腐りにくいので、輪島塗の原材料やキリコ祭り(※)のキリコとしても使われてきた、石川の文化に深く根付いた木です。アテ林業は、このアテを育てる林業のことで、択伐林の仕立て方や苗木の増やし方など、この樹種ならではの独特の技術が発達してきました」(一二三さん)
平地が少なく農業と林業を兼業することの多かった能登の人々は、なるべく簡単な方法でアテを増やすことを模索した。その一つが伏条更新(ふくじょうこうしん)といわれる手法。これは一本のアテの木の枝を地面に押し付け、そこから新しい個体を発芽させる方法だ。
また、「空中取り木」という方法もあって、こちらはアテの枝の皮を剥いて、それを水苔で包んで苗木を作る。いずれも大規模な機械作業を必要とせず、人の手だけで行えるものだ。
「使うのはハサミと水苔だけ。コツを覚えれば、基本的には誰もが簡単にできる作業です。昔は、農作業の合間などでこうした作業を行っていたようです。現在は、地元の人にこうした苗木作りを体験してもらっていますが、親子連れなどでも楽しんでやってくれています」(一二三さん)
アテ林業が示す持続可能な林業の姿
能登のアテ林業は、徹底して「人の手の届く範囲」で林業を行っていることが特徴だ。それは、伐採方法にも表れている。
明治維新後に日本に入ってきた近代林業では、基本的に「皆伐(かいばつ)」といって、ある範囲一帯をすべて伐る伐採方法が主流だった。機械の力も用いながら一度に多くの木材を伐り出すことで、大量の木材消費に対応した。
一方、伝統的なアテ林業では皆伐に対し「択伐」という方法を取ってきた。これは、ある程度の大きさになったアテだけを伐採する方法のこと。これによって、アテ林業を行う山にはさまざまな樹齢、大きさのアテが混在することになる。
「スギやヒノキが成長するにはたくさん光が必要なので、こうした伐採方法ではなかなか苗が育ちません。でも、アテは日陰でも枯れずに生き残るので、周りに木があっても成長できるんです」(一二三さん)
大規模な皆伐については、山肌が丸裸になってしまうことによる生態系への影響や災害への脆弱性から、近年では見直しが進んでいる。一方、択伐は、収穫に適した太さの木を少しずつ伐り出すことで山に大きなダメージを与えることなく、持続可能な形で林業を営むことが可能になる。
「能登の森林は、昔から、炭焼きや塩づくりの燃料として伐採を繰り返してきた歴史があります。日本の林業の歴史を調べると、いかに資源の枯渇を防ぐか、苦労の連続だったことが分かります。
当時の人々が現代人のような感覚で持続可能性を意識していたかはわかりませんが、能登のアテ林業は近代~戦後までは伐採と植林を続けてこれたので、結果的に、持続的な姿を保っていたと言えるかもしれません」(一二三さん)
択伐は、木材の「収穫」と同時に、林内の下層木に光を当て成長を促す「間伐」も兼ねており、アテ林業には向いている手法である。一方、択伐では一度に収穫できる木材の量が限られるため収入が少なく、かかり木(※)など安全性、効率面でのデメリットも生じてしまう。そのため最近は、皆伐と択伐のいい部分を取った「群状択伐」の試みも行われている。
一二三さんは、2025年3月まで県の奥能登農林総合事務所の林業指導専門員として勤務し、森林組合や地元の林業者に対して林業の経営や技術指導をするとともに、県有林などで群状択伐の試験を行ってきた。そこでは伐採跡地に植えたアテへの光の当たり方などを調査し、最適な伐採のバランスを見極めてきたという。
「『択伐は持続可能な林業である』と言われることがありますが、択伐は別に万能ではありません。大事なのは、次の世代の森づくりを考えつつ、うまくバランスを見ながら木を伐り、光の当たり方をうまく調整する方法を見つけることでしょう。ここでは、間伐と群状択伐を組み合せることで、人がなるべく森に手を入れなくても森が成長していく状態を目指しています。
植林や下草刈りに掛かるコストも現代林業において大きな課題ですし、人手不足の中で極力、人の手を借りずに森林を持続させる方法を模索する必要があると考えています」(一二三さん)
「農業や漁業の問題に比べれば、林業はどうしても影が薄い。木や森が成長していくスピードは人間の時間感覚よりもずっと長いので、意識しにくいのだと思います。」
能登は、2011年に先進国ではじめて世界農業遺産に認定されるなど、自然との共生を重視した生業や伝統文化が今も息づく地域として評価されているが、地域の高齢化が進むにつれ、森林を持つことを負担に感じ、山を手放したいと考える所有者は少なくないという。
「アテが能登の文化そのものに深く関わっていることが広く知られていけば、アテの森を未来に残そうという気持ちも高まるのではないか。林業遺産に登録された意義は、そこにあると考えています。能登の文化を後世に残したいといっても、アテがなければ文化は続いていきません。輪島塗もキリコもアテがなければできないのですから」
災害時に現場に急行し、文化の礎を静かに守る林業従事者。私たちの目から見えづらくなっている「林業」にもう一度目を向け、価値の連鎖を山にまで届けたい。一二三さんや古坊さんの話からは、そのような願いが伝わってくる。
それでも、小さな種をまき続ける
「今も森林組合の仕事は復興作業が多いのですが、それも来年ぐらいに目処が付くと思います。私は、組合の本来の生業は、木材を伐って出すことだと思う。だから、林業従事者の仕事を少しずつ木材を伐り出すことへ変えています。昨年は伐採目標の60%にとどまりましたが、今年は目標通り木を伐り出せるようにしたい」(古坊さん)
災害からの復興が少しずつ進む現在、一二三さんや古坊さんは能登の森について、よりポジティブなビジョンを持っている。
「アテ林業や能登ヒバに関わる人達による新しい動きも始まっています。この能登の森を復興させていくプロセスを『創造的復興』と呼んで、単にマイナスをゼロにするだけでなく、能登ヒバのブランドを高め、より能登の森を価値あるものにしようと考えているのです」(古坊さん)
今年2月には、県内の木材事業者や能登森林組合で構成される「アテ林業・能登ヒバを活かした能登の創造的復興プラットフォーム」でATE-NETというホームぺージを立ち上げ、アテ林業についての解説やアテ林業のキーパーソンへのインタビュー記事を掲載している。また、サポーターを募って視察交流会を行ったり、能登林業の現状について講演を行ったりもしている。
「午前中はアテの生えている能登の山や丸太の市場を案内して、午後は地域の製材所や輪島塗の工房を見せるんです。すると、どのように木が商品になっているのかをよくわかってもらえます。
単に商品だけが価値を持つのではなくて、その価値を山まで繋ぐことをやりたい。商品を売る側だけが儲かるのでなく、それを林業をやっている人に返したり、山まで循環させることを考えていきたいです。能登を視察した企業の人からは、ぜひアテを使った商品を作りたい、と言ってもらえます」(古坊さん)
こうした外部への活動とともに、組合内部の活動も増やす。
「災害で山に行けないこともありますが、とにかく目に見えるところでできることをするために、林業座談会をやりました」と、古坊さん。座談会には森林組合の組合員が参加し、能登の森林の現状の共有や、森林関連の法律の説明がなされた。
また、もっとも大きな課題である人材確保についても動く。
「昨年、24歳の人が技術職として組合の職員として入ってくれました。その方は能登支所にいます。能登支所は平均年齢が一番若く、その人の上に27歳の人がいて、課長が40歳です。現在は、高校などの就職説明会にも参加して、学生を誘致する活動もおこなっていますが、そのときは、こうした若い人に説明を任せています。やはり若い人の意見の方が響きますから」(古坊さん)
林業を取り巻く状況は厳しい。しかし、小さな芽から大木が育つように、林業復興への小さな種は少しずつ撒かれているのかもしれない。
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取材・執筆 谷頭和希
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撮影 杉山慶伍
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編集 友光だんご(Huuuu)
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