''ままならなさ''を抱きしめて生きる――作家・小原晩が語る、新しい「諦め」の境地
「どうして思い通りの人生が描けないんだろう」「なんでいつも、うまくいかないんだろう」私たちは皆、それぞれの"ままならなさ"を抱えながら日々を生きています。
そんな"ままならない"日常の出来事を独自の切り口とテンポでつづり、注目を集めているのが作家の小原晩さんです。これまで刊行した2冊のエッセイ集『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』(自費出版後、実業之日本社より刊行)と『これが生活なのかしらん』(大和書房)では、家族や恋人、仕事などさまざまな日常のエピソードを通して、空回りを繰り返しながらも、地道に毎日を重ねる小原さんの姿が描かれ、多くの読者の共感を呼んでいます。
「(作品を通して)伝えたいメッセージはない」と言い切る小原さん。しかし、作品を読んでいると、不思議と自分自身の"ままならない"日常を、ふんわりと肯定できるような気持ちになることも確かです。
これが生活なのかしらん
かたりたくなる酒がある
むつかしい むつかしいよと
ままならないまま大人になって(『これが生活なのかしらん』より抜粋)
私たちは、"ままならなさ"とどう向き合っていけばいいのか。小原さんに、お話を聞いてみました。
小原 晩(おばら ばん)さん
1996年、東京生まれ。2022年、自費出版のエッセイ集『ここで唐揚げ弁当を食べないでください』が異例の1万部を超えるベストセラーに。翌年、2作目『これが生活なのかしらん』(大和書房)を刊行し、話題を広げる。2024年には、『ここで唐揚げ〜』が実業之日本社より商業出版化。現在はエッセイにとどまらず、小説執筆にも挑み、創作活動の幅を広げている。
私が書きたいのは「生きるための言葉」だった
── 小原さんが自費出版で本を出されたのが、2022年のことですが、それ以前から創作意欲のようなものはありましたか。
昔から「言葉」には興味があったんですけど、それが「自分が書きたい」というところまではつながっていませんでした。
執筆のきっかけとなったのは、お笑い芸人のピース・又吉さんです。学生の頃にお笑いが好きになって、ピースが好きで、その活動を追っている中で、又吉さんが芥川賞作家になられて(2015年)。その又吉さんがきっかけで本をいろいろ読むようになったのが、(作家を目指す)一番大きい入り口でした。その後、22歳で美容師の仕事を辞め、自分の人生を考え直す時間が生まれた時に、少しずつ「書きたい」という気持ちが芽生えていきました。
── それで、ご自身で本を出されたのですか?
実は本を出す前に、知人の紹介でライターの仕事をしていた時期があります。最初は「文章を書いてお金がもらえる」というだけで満足していました。けれど次第に物足りなさを感じ、「これは自分のやりたいこととは違うのかもしれない」と思うようになったんです。
── 「自分のやりたいこと」とはなんだったのでしょうか。
まさにそれを考えていた時に、歌人の穂村弘さんの本の中で、「生きのびるための言葉と、生きるための言葉」という考え方に出合いました。例えば、道端で何か探し物をしている中年男性がいて、警察官が「何を探しているんですか?」と聞いた時に「コンタクトレンズです」と答えれば普通ですが、「蝶々の唇です」と言ったら危ない人だと思われてしまいます。
この場合、生きのびるための言葉となるのが「コンタクトレンズ」です。人間が普通の社会生活を送る上ではそう答えるべきですが、一方で、人間はコンタクトレンズを探すために生まれてきたわけではありません。私は穂村さんの本を読んで、「コンタクトレンズ」(生きのびるための言葉)ではなく、「蝶々の唇」(生きるための言葉)の方が書きたかったんだということに気づいたんです。
── 作品を発表する手法は、いまではブログやSNSなど、ネット上にたくさんあります。それなのに、あえて手間やコストのかかる、紙での自費出版という方法を選ばれた理由はなんだったのでしょうか。
後付けなんですが、ネット上で読んでもらうには、いわゆる「バズる」という状態が必要になってきますよね。そうなるとすごく強い言葉を使わないといけなくなりますし、扱うトピックスもインターネットと相性のいいものを選ばざるを得ない。私はどちらかというと曖昧でわかりにくいものが好きなんです。でも、そういった話はネットではバズりにくい。だから、1冊の本という単位の中で、私の表現スタイルを見てもらうことがいいんじゃないかと思ったんです。
── ところで、創作をするにあたって、なぜ小説ではなく「エッセイ」というジャンルを選ばれたのでしょうか。
それも又吉さんの影響が大きいのですが、私がエッセイを好きになるきっかけが、又吉さんの『東京百景』というエッセイ集だったんです。当時の私は、小説のことを単純に「嘘」だと思っていて、日常と地続きの内容を扱うエッセイの方が読みやすく、よく手に取っていました。だから、書くとしたらエッセイというのは、私にとってごく自然な選択でした。
「魅力的な人でも唾を吐く」ということこそ書きたい
── 小原さんのエッセイは、苦い思い出や失敗談であっても、どこか明るいトーンでつづられているのが印象的です。そこには、どのような意図があるのでしょうか。
『ここで唐揚げ〜』は、初めて人に見せるために書いた文章だったので、勝手がわからず、最初はつらかったことや思ったことをそのまま書いていました。でも、そうやって書いた文章は自分で読んでいても、すごくつまらなく感じて......。それで少しずつ文章から「ただの感情の吐露」を抜いていくことで、最終的に描写が増えていきました。
なので私のエッセイは、たぶん「感情」があまり書かれていなくて、「エッセイなのにどういう人なのかあまりわからない」と言われることもあります。
── エッセイを通して、過去の体験談や、楽しかった、悔しかったみたいな感情を伝えたいというわけではない、ということでしょうか。
そうですね。自分の思い出を知ってほしいわけではなく、どちらかというと思い出を素材にして「文芸」をしたいという感覚です。「この文章にとって必要なセリフか」「このエッセイにとって必要な描写か」といった点を大事にしながら、エッセイとして良いもの、作品として一番いい形を目指して執筆しています。
── ほかにエッセイを書く上で意識していることはありますか?
人の嫌な部分も、隠さずに書きたいと思っています。なぜなら、嫌なことも書かないと不自然だと感じてしまうから。例えば、魅力的だなと思った人が、帰り際に道で唾を吐いたら、少し嫌な余韻が残るじゃないですか。でも、私はそういった出来事にこそ、「本当」を感じます。唾を吐いた人を非難したいわけではなくて、「すごく魅力的な人でも唾を吐くことってあるよな」という感覚が大切だし、そういうところこそ書きたい部分なんです。
「ままならない」ことは、ままならないままでいい
── 2作目の『これが生活なのかしらん』のなかで、「みんなみんな思い出を抱きしめて、思い出に生かされたり殺されそうになったりしながら、なんやかんやで生きている」という印象的なフレーズがありました。実際、小原さん自身も思い出に生かされたり、殺されそうになったりしている実感はありますか。
あると思います。思い出して思わず「ふふふ」と笑ってしまうこともあれば、苦しくなることもあります。もし「思い出をすべて消すボタン」と「すべて取り戻すボタン」があったら、どちらを押すかは難しいですね。都合の悪いことは自然に忘れているはずなので、思い出しすぎるのも良くないと思います。でも一方で、どうしても忘れられないこともあり、過去の自分の罪に後ろ指をさされているように感じることもあります。
── そういったつらい思い出や出来事にはどうやって向き合っていますか。
それこそ「創作」が唯一の方法かもしれません。私、嫌なことがあった時に、誰にも見せないメモのようなものを書いているんです。日記でも、詩でも、エッセイでもない、ただの「言葉の塊」です。例えば、嫌なことを言われた帰り道にモヤモヤしながら歩きつつ、一連の出来事を言葉にしてみるんです。それは、どこにも発表されないし、誰からの評価も受けないものなんですけど、言葉にできた時点で「もう、これができたからいいや」という感じになるんです。
── 嫌な出来事が、言葉にすることで浄化されるという感じでしょうか。
いえ、嫌な思い出が肯定できるようになるということではなくて、こうやってものが書けたから良かったんだみたいな、創作に対する肯定という感じですね。
── ある種の諦観(諦めて、物事をあるがままに受け入れる状態)を感じますね。
たしかに、人からは「明るい諦め」と言われることもありますね。初めて言われたときは「諦めているつもりはない」と反射的に思いましたが、よく考えてみると、そういう「自分なりの諦め」をなんとか見つけてやってきたのかなと思うようになりました。
── 最後に、小原さんのように日々"ままならなさ"を抱えて生きている人たちに、メッセージをいただけますか。
私は"ままならないこと"は、そのままでいいと思っています。誰もが"ままならなさ"を抱えて生きているもので、「自分は思い通りに生きている」という人の方が、むしろ不自然に感じます。偉そうに聞こえるかもしれませんが、"ままならない"と感じている人の方が、自分と向き合い、人のこともよく見ているのではないかとも思うんです。
「ままならないから、どうしよう」ではなく、「ままならないね、でもそれでいいじゃない」。私はそんなふうに考えています。
取材後記
記事の冒頭で紹介した『これが生活なのかしらん』の一節は、本書の冒頭に掲載されたエピグラフの一部分です。この文には続きがあり、次のような言葉で締められます。
これが生活なのかしらん
ふっとひらけた場所にでる
生きていること
ほのおかしくて
小原さんの口から出てくる「諦め」「ままならないままでいい」という言葉には、不思議とネガティブな響きはありません。ままならない日々を一旦あるがままに受け入れる。そうすることで、見えてくる光もあるのではないか。小原さんの言葉からは、そんな「希望」を受け取ることができました。
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写真
中村宗徳
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執筆
小野和哉
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編集
都恋堂



