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1度きりの人生、心が動く方へ。白井貴子が語る「ロックの女王」の葛藤と再出発

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1984年、CMに起用された楽曲『Chance!』がヒット。"ロックの女王"や"学園祭の女王"と称され、注目の的となったシンガーソングライターの白井貴子さん。松田聖子さんや中森明菜さんといったアイドルが活躍した時期に、ミニスカート姿で自作の曲と歌詞をロックサウンドに乗せパワフルに歌唱する白井さんは、音楽シーンに新しい風を呼び込む存在でした。

そんな白井さんが世界的ミュージシャンのジャクソン・ブラウンらと共演した1986年は、男女雇用機会均等法が施行され、女性の働き方や生き方が変化し始めた年。

当時はまだ男性シンガーが主流だったロックシーンにおいて、未踏の地を切りひらく存在として多くの期待を集めていた白井さん。当事者としてご自身をどう受け止め、歩んできたのか、お話を伺いました。

白井 貴子(しらい たかこ)さん

1984年にリリースした『Chance!』がヒット。同年に西武球場でライブを開催するなど女性ロックミュージシャンの先駆的地位を確立し、"ロックの女王"として注目を集める。1988年から約2年間、充電のために英国ロンドンに移住。帰国後は、音楽活動と並行してテレビ番組にも出演し、飾らない朗らかな人柄でお茶の間の人気者に。2026年1月24日、KT Zepp Yokohamaにて『RASPBERRY KICK 再現ライブ! & SDGsカーニバル』と銘打って横浜公演を開催。ライブでは1986年に発売され、2026年1月7日に復刻された名盤『Raspberry Kick』を再現すると同時に、会場で長年取り組んでいる環境活動に関する展示も行われる。

音楽は"おもちゃ"のように身近な存在だった

── はじめに、白井さんが「音楽が好きだ」と自覚されたのはいつですか。

物心つく前から、周りに音楽があふれていたのではっきりとは分かりません。湘南という土地柄か父は加山雄三さんが大好きでしたし、一緒に暮らしていた叔父はビートルズの大ファン、ひとまわり上の姉は、歌謡曲が好きでレコードをよく聞いていました。私自身も友達と毎日デュエットしながら学校から帰っていましたから、一番身近な"おもちゃ"のような存在でした。うれしい時だけでなく悲しい時ですら......特に鮮明に覚えているのは、中学で転校した際にいじめにあった時ですが、音楽は私の心を和ませたり、楽しませたりしてくれたのです。

── そこからどのような経緯でプロのミュージシャンを志すようになったのでしょうか。

どうせ勉強するなら、大好きな音楽がいいなと思って、短大で音楽科に進学しました。卒業後の進路に迷っていた時、たまたま、知人から「バンドでコーラスをやらない?」と誘われ、ステージで歌ったら楽しくて!当時、大失恋したこともあってたくさんの楽曲が生まれました。そのうわさを聞きつけたバンドマンたちが「オリジナル曲を一緒に録音したい」と言ってくれたのです。

白井貴子さん2

── 導かれるように、シンガーソングライターになっていったのですね。

今思い返しても、当時の運命の転がり方はすごいですね。その後、自分が開いたコンサートにわざわざ京都から足を運んでくれた方を介し、ソニーミュージックのオーディションに応募。合格することができました。女性では初めてだったそうです。でも正直、当時はうれしさよりも戸惑いの方が大きかったです。私はずっと、ビートルズやデヴィッド・ボウイなどのブリティッシュロックが大好きで、当時の日本の芸能界で主流だった歌謡曲と、自分の音楽性がかけ離れていたので。あの時の私には、自分がロールモデルにしたいと思う先輩が、日本の音楽業界には見つけられなかったのです。

芸能界入りに親は心配しましたし、私自身も言い知れぬ怖さがありましたから、震えながら選んだという感じでした。でも、1回しかない人生だから、心が動く方を選びたいと思ったのです。

── デビュー後も、様々なことを自力で切りひらく必要があったそうですね。

ええ。男所帯の事務所に所属したこともあって、更衣室をもらうのにも一苦労でしたし、衣装も自分でデザインし母に縫ってもらいました。今のアーティストには考えられないでしょうが、当時はそれが"当たり前"なんだろうなって。私自身、男性に意見するのはなんとなくはばかられましたし、自分でなんとかした方が早い、と思っていましたね。

なので、デビュー直後から半年ほどはジーンズを履いて歌っていたのですが、当時はおしゃべりが苦手でライブのMCも嫌で仕方がありませんでした。ステージでドギマギする私を見た文化放送の方から、「照れてMCができないようじゃ、スターになれない。ミニスカートを履くぐらいの気概がないと」と激励されたんです。

私も、そんな自分が嫌で変わりたいと思っていたので、翌日からジーンズからミニスカートに履き替えました。それも1つの転機だったかもしれません。

"ロックの女王"でも感じた、働く女性への風当たりの強さ

── 83年ごろの学園祭では、学生が"総立ち現象"を巻き起こし、「ロックの女王」と呼ばれるように。その称号について、どう感じていましたか?

日本の音楽シーンにそんなに明るいわけではありませんでしたが、もともとブリティッシュロックが大好きでしたから、「ロックの女王」と呼ばれて悪い気はしませんでした。当時の音楽業界には、60~70年代の洋楽に親しんだ人が多く、日本で新たにロックシーンを築きたいという熱意があったのです。私もそう感じていたので、だったら自分がロックを歌えばいい!ってね。

── 名盤『Raspberry Kick』がリリースされた1986年に、男女雇用機会均等法が施行されました。当時、女性が伸びやかに活動できる空気は醸成されていましたか?

残念ながら、個人的にはまだまだだと思っていました。当時、「お茶くみOLからいかに脱却するか」みたいなところで女性は悩んでいたと思います。年齢的に25、6歳になると、とんとんと"肩たたき"があって暗に退職を迫られる感じでした。

音楽業界も、女性歌手は30歳になる前に引退を迫られる......みたいな空気があって、例外なく私もそれを感じさせられました。30歳を過ぎた女性アーティストの今後を考え、どうキャリアを積んでいくかを真剣に考えるといった意識は、当時音楽業界にはほぼなかったのではないでしょうか。

白井貴子さん3

── まるで商品のように消費されるような感覚があったと。

女性歌手には、多かれ少なかれそれに近い感覚はあったんじゃないでしょうか。あのころは『ザ・ベストテン』などの音楽番組が全盛で、いくらいいライブをしても、シングルがヒットしないと認めてもらえなかったのです。なので、私も巷(ちまた)で"ロックの女王"と呼ばれていたものの、「100万枚売れないなら、さよなら」みたいな重圧を感じていました。

これからもっと自分の人生を磨きながら、人としても音楽家としても豊かになっていきたいと考えていたのに、自分の願いとは真逆に進む現実とのはざまで、どんどん疲弊していきました。

── 人気絶頂期に、ひとり苦しんでいたのですね。

「もっと自分を大切にして、もっと自分に栄養を与えて生きなければ死んでしまうな」と思うほど、心身ともにボロボロになってしまったのです。

そんな時、撮影先のロンドンで道端の花が目に飛び込んできました。太陽に向かって光り輝いて咲き誇る花が、幼いころ湘南で歌を楽しく歌っていた自分の姿と重なり、「そうだ、私はもともといい力を持っていたはずなのに、こんなにもボロボロに疲れてしまった」と、すごく悲しくなりました。この花のように輝くために原点に立ち返ろうと思い、活動休止を決めたのです。1988年でした。

移住先のロンドンで得た、音楽家としての気づき

── キャリアが失われるかもしれない決断ですから、勇気が必要だったのでは?

正直、「これ以上走れない」という感じでした。売上げの目標数字はどんどん増やすことができるけど、人間には1日24時間しか与えられていない。上ばかり見て、夢を膨らませ続けるのは自分の身にとって危険だと思いました。当時、ちょうど28歳〜29歳だったということも大きいですね。このままではいけない、30歳までに自分を立て直したいと思ったのです。

── ロンドンでの暮らしはいかがでしたか?

当時、ヨーロッパはチェルノブイリ原発事故(1986年)の影響で、オーガニックへの関心が急速に高まっていました。また、アンティークと称して古いものを大切に守る伝統も深く、古材を用いて自宅をDIYするミュージシャンもいましたね。私もオーガニックに興味を持ち、ベジタリアンにも挑戦しました。異国での様々な経験はどれも新鮮でワクワクしましたし、丁寧に暮らす人たちを見て、とても人間らしいなと。その一見、何気ない日々が私に活力を与え、また昔のように楽しみながら音楽を作るという原点に立ち返らせてくれたのです。

── 音楽活動に対する意識は、何か変わりましたか?

ずっとブリティッシュロックにあこがれてきたけれど、やっぱり現地に行くと、自分は日本人だなと思う瞬間も多くて。かえって、きちんとした日本語で歌いたいと思うようになりました。外に出たからこそ気づけた大事なことです。地元湘南でのごみ拾いや大豆の有機栽培など、現在、音楽活動と並行して行っているライフワークも、ロンドンでの気づきがあったからこそですね。

帰国してしばらくしてから、NHKの番組で私が通ったロンドンの語学学校を再訪しました。そこには、30歳手前の日本の女性が何名も、自立のために英語を学びに来ていて「あの時の私と同じだな」と思いましたね。みんな、組織や家族などから"結婚するのかしないのか"という選択を迫られ、もし結婚しない選択をするならスキルを身につけないと、と考え、居場所から飛び出して今の自分を変えようと努力していました。ただ、80年代は現場に幼子を連れて行ったアグネス・チャンさんが論争を巻き起こしましたが、今は結婚や出産と仕事のどちらか1つしか選べない時代ではありませんよね。よい変化は着実に起こっていると思います。

1度きりの人生。心が動く方に進みたい

── 白井さんの中で、歌いたいテーマやメッセージに変化はありますか?

やはり、今、世界がおそろしい方向に進んでいるので「未来へ咲かそうFLOWER POWER」「LOVE & PEACE」は大事にしたいです。1996年に作った『元気になーれ!』(「ひるどき日本列島」エンディング曲)は、2004年から全国高等学校女子硬式野球選手権大会の応援ソングになり、今も女の子たちに歌い継がれています。感慨深いですし、あの歌が20年以上も頑張っている女の子たちを励ます曲になっていると思うとすごくうれしいですね。

── 白井さんのまっすぐな気持ちから生まれた楽曲は、ずっと女性をエンパワメントしてきたのですね。

活動を始めたばかりのころは、見たこともない存在だったので風当たりも強かったですね。女性だから、ロックミュージシャンだから有利に働いたなんてことはなく、当時を知る人たちからはよく「日本の女性ロックの線路引きだ」と言われます。ただ、私は自分がよいと思える作品を作り歌い届けることに無我夢中だっただけですから、そんなふうに言ってもらえることは、誇らしい反面ちょっと照れくさいんですけどね(笑)。

白井貴子さん4

── 最後に、今後の目標やチャレンジしたいことを教えてください。

私は、今も昔もバンドメンバーとスタジオに入りセッションしながらいい音を探ったり、ライブでお客さんと同じ空間を共有したりすることが大好き。パソコンやスマホでは得られないような発見や創造といった......、いわばケミストリーが生まれるから、音楽を続けているんです。つい先日もライブの帰り道に、バンドメンバーでありパートナーでもある本田清巳と「声が出なくなるまで続けよう」と話したばかりなんですよ(笑)。

音楽を作るという目的のために、感性や考え方がまるで異なる人たちが集まり、それぞれの立場や主義主張を乗り越えながら調整を重ね、1つのものを作り上げていくってすごく素晴らしいことだと思うんです。時には、1人では起こりそうにもないトラブルにも見舞われますが(笑)、1度きりの人生ですから、これからも心が動く方に従いたいですね。

白井貴子さん5

取材後記

始終、旧知の間柄のように親しみを込めて話しかけてくださった白井さん。撮影中も、たまたま通りかかったファンに対し、満面の笑顔を浮かべながら無邪気に手を振っていました。そこには、大人だから、有名人だから......といった固定観念には決して縛られない、自分軸で立ち、動く音楽家の姿があったように思います。

"無邪気なままの昨日じゃいられないけど
越えていく雨の夜は 曇るばかりじゃない"

これは、『元気になーれ!』の一節です。

白井さんはきっと、たびたび襲う"嵐"にボロボロになった時も、音楽が好きというピュアな気持ちを忘れないことで再び前に進めたのでしょう。

今、女性たちが放り出された荒れ地は整い、選ぶ道筋は増えてきたように見えますが、ゆえに、何を選べばいいか......と迷う人もいるのではないでしょうか。求められる役割をこなすのではなく自分の心が動く方を選ぶという、白井さんのような選択は、時として非効率に見えたり、困難を伴ったりするかもしれません。けれどそのかわり、自分を納得させることができたり、自分を愛おしく思えたりするのかな......と、1人の働く女性として勇気や元気をいただいた取材でした。

  • 写真

    鈴木教雄

  • 執筆

    キツカワユウコ

  • 編集

    都恋堂

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