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知る、つながる、はじまる。

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幸せとは、人とつながり生きること。日本にいる難民たちの「働きたい」という切実さ

    

サストモ編集部

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近所の公園で出会ったお母さんは"難民"だった

2021年の夏、筆者に娘が生まれました。

子どもを迎えるにあたり、出産前に引越したのは奥鎌倉の少し広めの賃貸物件。観光地として賑わう鎌倉から離れに離れ、まわりには特にこれといった店もない、よくいえば自然に囲まれたエリアです。

さて、産後数ヶ月が経ったころ。子どもを抱いて公園を散歩していると、アフリカ系の方かなと思われる母娘を見かけました。クルクルと鉄棒で上手にまわるお姉ちゃんを見守りながら、赤ちゃんが眠るベビーカーを前後に揺らし、ベンチでパンを食べているお母さん。そうか、こんな天気のいい日は公園でごはんを食べればリフレッシュになりそうだなぁ。

「こんにちは。いい天気ですね〜」

鎌倉は外国人の方もよく見かける土地。さして気に留めず声をかけました。「こんにちは」とゆっくりとした日本語であいさつが返ってきます。聞けば、上の娘さんはもうすぐ小学生、下の娘さんはうちの娘と2ヶ月違いだそう。一気に親近感がわき、ご近所ならまた会えるかなと「おうちはどこですか?」と聞くと、お母さんは山のほうを指さします。その先にあったのは、難民認定申請中の外国人たちが暮らすシェルター「アルぺなんみんセンター」でした。

私が近所の公園で出会ったお母さんは、"難民"だったのです。

"難民"になることが難しい日本の現状を知る

まさか自分のこんなに近くに難民の人が生活しているとは。
ん? そもそも難民ってどんな人のことをいうんだっけ......。

難民という単語が自分とは遠い世界の話で何もピンとこなかった私は、その後すぐにアルぺなんみんセンターの施設見学に参加しました。そこで初めて、日本にも各国から逃れてきた難民の人たちがいること、そして彼らを取り巻く厳しい現実を知ったのです。

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アルぺなんみんセンターでは、施設見学ができるオープンデーを定期的に行っている。

難民とは......
人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であることまたは政治的意見を理由に迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者(難民条約第1条A(2) より抜粋)

難民とはつまり、自分の国にいたら命の危険があるために外国に逃げることを余儀なくされた人たちのこと。2022年5月の統計では世界の難民の数は1億人を超えたといわれています(外国に出ず、国内で避難している国内避難民を含む)。

難民が逃れた先の国で正式に"難民"として受け入れられるには、その国で難民認定を受けなければいけません(日本では法務省出入国在留管理庁に申請)。日本は特にこの難民認定率が低く、1%に満たない年も多くあり、他G7先進国から批判の声が上がっています。

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難民申請には2〜3年がかかりますが、日本では99%以上の人が認定を受けられません。さらに、審査通過の基準は明確にされていないため、何をどのように申請したら認定がおりるのかわからないまま申請を繰り返し十数年......という人もいるのだとか。難民であるはずなのに難民になることができず、でも自国にも帰れない"難民認定申請中の人(※)"たちが日本にも存在しているのです。

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アルぺなんみんセンター居室エリアの廊下。

この審査の厳しさは、日本に就労目的でやってくる「偽装難民」を排除するためといわれていますが、そちらに注力するあまり、今目の前で困っている人々を助けられていないのが現状。難民認定が受けられなかった人々は、基本的には「自国へ帰ること」が要請されており、帰国準備のための猶予の期間をもらっている状態になります。その間、出入国在留管庁(入管) の施設に収容されたり、「仮放免」を受けて外で制限付きの生活を送りながら、難民申請を繰り返します。もちろん、彼らに帰る国などないからです。

仮放免の難民たちに衣食住を提供するシェルター

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アルぺなんみんセンターは、仮放免を受けた難民の人々に衣食住を提供する日本最大級のシェルターです。

長年、難民支援に携わってきた有川憲治事務局長により2020年2月にNPO法人化、同年4月にオープンしました。設立のきっかけは、難民の人々が仮放免を受けて入管を出たとき、「今晩泊まる場所がない」と路頭に迷うケースが多かったこと。それに対しなにもできないことに心を痛めていた有川さんがシェルターとなる場所を探していたところ、カトリック信徒たちの祈りの施設として鎌倉にあったイエズス会の「黙想の家」を、「人道支援に役立ててもらえるなら」と建物から家具、備品までそのまま使わせてもらえることになったのです。

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施設内には全30の個室があり、女性棟と男性棟に分かれている。海外から来る宣教師たちの滞在施設だったため、天井は高く家具も大きめ

アルぺなんみんセンターはどのようなことを行っているのか。スタッフであり、地域連携コーディネーターを務める漆原比呂志さんに話を聞きました。

「私たちが行っているのは、まずシェルターとして衣食住を提供すること。そして、畑作業や地元のイベントに参加するなど、地域の人々と触れ合うプログラムも実施しています。母国や入管でつらく孤独な思いをしてきた人も多いですから。あとは、将来を見据えた日本語学習プログラムなどの自立支援です」

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2022年11月現在、入居者は13名。これまでに受け入れた国籍はスリランカ、ミャンマー、バングラデシュ、インドネシア、アフガニスタン、イエメン、イラン、コンゴ、ウガンダ、スーダン、ナイジェリアなど、各国から31名にのぼります。先日はウクライナからの避難民も半年間受け入れたそうです。彼らはどのようにしてアルぺにたどりつくのでしょうか。

「私たちとつながりのある難民支援団体や弁護人の方から直接連絡をいただくことが多いです。そのため、ここにいる入居者の方にはそれぞれ別の弁護人や支援団体がついていて、境遇は様々。ただ、連絡をいただいてもすべての人を受け入れることは難しいのが現状です。共同生活になるので、一緒にごはんを食べたり、掃除をしたり、そういうことができない方はどうしても受け入れが難しくなります」

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食堂エリア。住み込みのシスターとボランティア、入居者が調理を担当する。近隣の農家や青果店などからの食糧支援も

では反対に、ここを出ていく人は難民認定を受けて出ていくことになるのでしょうか?

「『アルぺを出ていく=難民認定が通る』ということではありません。これまでに受け入れた31人のうち、認定を受けられたのは3人。イエメンのご家族でした。正直、難民認定を受けるのはとても難しいことです。ただそれ以外に、人道的配慮として在留資格が出るケースがあります。可能性として目指したいのは、在留資格の獲得です」

在留資格が出れば、健康保険に加入できるほか、制限時間つきでの就労が認められており、日本での自立の糸口が見えてきます。一方で、在留資格が得られず仕事ができないという状況に苦しみ、アルぺを去る人もいます。

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「『アルぺにいてもいいよ、いてもいいけど働いてはダメですよ』という状況は想像以上に苦しいものです。日本に身寄りがなく、公的保障もない彼らは、実際には働かなければ暮らしていけない。けれどアルぺにいる以上、法的に禁止されている就労を認めるわけにはいきません。ここを出て自力で暮らすと言っても、正直生活していくのは厳しいです」

このとき漆原さんの口から出た「働けない」ことの苦しみの話。このあと実際の入居者の方に話を聞くことで、より深刻さを持って迫ってくることになるのです。

個人的な恨みを買い、命を狙われて難民に

アルぺなんみんセンターの入居者の方にも直接お話を聞くことができました。どんな事情で母国を出て、なぜ行き先に日本を選び、現在はどのような日々を送っているのでしょうか。

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スリランカ人のリヴィさん(48歳)は、スリランカ東部にある海辺の街の出身。幼い頃から仲良くしてくれた近所のおじさんが政治家となり、大臣の役職についたことで、スポーツ万能だったリヴィさんはボディガードとして登用されます。

スリランカでは、シンハラ人(人口の約74%・仏教徒中心)とタミル人(人口の約18%・ヒンドゥー教徒中心)との民族対立による内戦が2009年まで26年間続いていました。リヴィさんがボディガードになった1996年はまさに内戦が激化していた時期。タミル人の青年を中心とした武装テロ組織「タミル・イーラム解放のトラ(LTTE)」がスリランカ東北部をタミル人の母国として独立するため国軍と戦っており、故郷の街もその支配地域に入っていました。

「朝、家の外に出ると死体がいっぱい。転がっていました」

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ある日リヴィさんは、LTTEのメンバーが潜伏している場所をつきとめ、警察に通報します。その恨みを買い、個人的に狙われるようになったのです。具体的には、大臣の選挙活動中に車20台で移動していたところリヴィさんの車だけ銃撃にあいました。リヴィさんは右腕の内側を撃たれ、隣に座っていた友人は弾が胸に当たり亡くなりました。

その後も、親戚や友人が次々と殺されました。内戦が終わった今でも、実家にはリヴィさんの行方を探りにくる者もおり、家族からは「帰ってきてはいけない」と言われているそうです。

日本で難民申請を繰り返し20年。失われた時間の中を生きる

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内戦がまだ深刻な状況の2002年。リヴィさんは、国外に逃げることを決意します。

「最初、イギリスに行こうと思ったけど、ビザがとれなかった。でも、日本のビザが2週間でとれた。日本は安全な国と知っていたので、日本に来ました」

日本に来てからは難民認定申請をし、難民支援団体の援助を受けながら転々と生活をしていましたが、2009年には出入国在留管庁 東日本入国管理センター(牛久収容所)に収容されます。外から鍵が閉められた部屋で複数人が暮らす生活、いつここから出られるのか先が見えない毎日。リヴィさんはここで高血圧の病気を患います。さらに、銃撃事件のことがフラッシュバックするPTSDに加え、うつ病にも悩まされました。

「今でも、銃で撃たれたことを思い出して、眠れないことがあります。寝るとき、撃たれた右腕が痛くなる」

その後、運良く10ヶ月で仮放免となり、難民支援団体の支援を受けながらアパート暮らしを始めます。その支援も打ち切りとなり、2020年10月にアルぺにやってきました。

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リヴィさんが抱えてきたファイルの中身を見せてくれました。そこには、これまで入管に提出してきた、自分が国を出るに至るまでの経緯をまとめた書類の束がありました。難民認定を受けるには、かなりの分量の書類を用意し、その内容と齟齬がない説明が求められるそうです。

書類の中に、おびただしい数のスタンプが押された紙を見つけました。これは何かと尋ねると、2〜3ヶ月に1回、入管からの呼び出し状が届き、仮放免の許可申請に行くのだとのこと。呼び出しの日、今度こそ難民認定が出るかもしれない、在留許可が出るかもしれない、またはそのまま入管に再収容となるかもしれない......。仮放免許可書に押されたスタンプの数は、リヴィさんの絶望と安堵が繰り返された記録なのです。

スタンプの数、ファイルの分厚さは、日本で難民認定を受ける厳しさを物語っています。

「今は書類を揃えて、難民認定を得るための裁判の準備をしているところです。自分は難民なのに、どうしてそれが認めてもらえないのだろう、と思います。27歳で日本に来て20年。認定を待っている間に年をとり、人生の長い時間を失ってしまった」

帰る場所もなく、将来的に住めるかどうかわからない国で、ゴールが見えないまま、ただ待ち続ける。その時間は"失った"というよりほかにはなく、なんと残酷だろうと思います。日本の場合、難民認定が出るのも強制退去になるのも基準がなく、すべて入管の裁量次第になっているというのがひとつ問題です。これに関しては、第三者機関が入るような仕組みに変えていくべきという声も上がっています。

母国をなくした難民たちが「働くこと」を求める理由

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話が一段落したところで、リヴィさんがスリランカの紅茶を淹れてくれました。濃くて、甘くて、おいしい。深刻な話に張り詰めていた気持ちがほぐれていきます。そうだ、スリランカは世界有数の紅茶の産地でしたね。

リヴィさんに、もし日本で難民認定が得られたら何がしたいか尋ねると、考える間もなく答えが返ってきました。

「働きたい。なんの仕事でもいい」

入居者を一番近くで見てきた漆原さんはいいます。

「仮放免中の方々は、入管の許可なく県外移動ができない、健康保険に入れないなどいろんな不自由がありますが、やはり『働けない』ということがもっとも苦しい。病気などで就労が難しい難民の方もいるので、そうした方々には生活保護が受けられる体制を作っていきたいと思っていますが、身体が健康で十分に働ける人たちは、やはり働いて自立したいという思いがある。彼らを見ていて、人間は安全な寝食を与えてもらうだけでは幸せにはなれない、ということがよくわかりました。僕たちはアルぺでの生活を少しでも楽しく過ごしてもらおうとイベントなどを企画するんですけど、それは根本的な解決にはならない。入居者の方から『アルぺは入管と同じじゃないか!』と怒鳴られたこともあります。え〜、って思いましたけど、彼らにしてみたらそうなんです。衣食住について自分で決定できない、という点では同じなのかもしれません」

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8年前、リヴィさんのお父さんが病気になったが、何も仕送りができないまま亡くなってしまったことをずっと悔いているという。

「先日、在留許可が出て就職したミャンマー出身の女性がいるんですが、アルぺを出るとき『これでやっと人間になれる』って言ったんです。彼女はイベントも中心となって楽しんでくれていたから、僕もちょっとショックで。でも、母国も家族もすべてなくした彼らにとってみれば、働くというのはそういうことなんです。仕事というのは、その人の知識や経験が生かされる場所であり、人とつながる場所であり、人から必要とされる場所ですよね。仮放免中の彼らは、日本から『帰ってください。あなたは要らない人です』と言われている大前提がある。母国を出てから、人に必要だと言ってもらえる機会がない人たちなんです」

彼らにとって「働く」とは。その切実さが真に迫ってきました。「衣食住は用意するから、働かなくてもいいよ」と言われたら、もしかしたら最初、私は喜んでしまうかもしれません。でも、着る服も、食べるものも、寝る場所もずっと自分では選べない。ましてや彼らが止むに止まれぬ事情で身を置いているのは、なんとか逃げてきた外国。家族も、話を聞いてくれる友人も近くにいないのです。そんな環境で、人が「自分」としての人生を切り開いていこうと思ったら、働くことを求めるのは当然です。

地域と難民をつなぐ。友だちになれば問題が自分ごとになる

「働く」ということが人間の幸せにとって大切だということを受け、アルぺなんみんセンターでは、シェルター機能のほかにも大切にしている2つの事業があるといいます。

「ひとつは『難民自らによる発信事業』です。YouTubeやSNS、イベントなどを通じて、難民の方たちの置かれている状況についてアルぺが代弁する形で社会に発信しています」

「もうひとつは『地域連携』です。施設内にある畑を地域の人と一緒に耕したり、難民セミナーをしたり、ゲストハウスをお借りして入居者が母国の料理をふるまう『なんみんカフェ』というイベントなどを行っています。入居者が地域とつながり、居場所をつくることで、将来の一歩を踏み出せる手助けができればと思っています」

アルぺなんみんセンターが行う「発信事業」と「地域連携」。どちらの活動にもリヴィさんは入居者の中心人物として積極的に参加し、力を貸しています。「なんみんカフェ」では、スリランカカレーやミルクティーなどをふるまい大好評だったそう。これらの活動は「楽しいです」とリヴィさんも顔をほころばせます。

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「人には、自分の力で人を喜ばせたい、もてなしたい、役に立ちたいという気持ちがあると思っています。こういった地域連携を重ねていって、ゆくゆくは鎌倉市の地域限定でもいいので条例をつくるなど合法的な環境をつくり、彼らが働ける仕組みをつくっていけたら」と漆原さん。

法律での制限があり、すぐに現状を変えることがなかなか難しそうな日本の難民問題ですが、私たちにできることはあるのでしょうか。

「入居者と友だちになってほしいです。僕も、彼らと一緒に遊びに行ったりもしますし、友だちだと思って関わっています。難民と聞くと、かわいそうな人たちだから支援しようと考えてしまうのですが、そうじゃなくてウェルカムの心で歓迎する。支援しようとすると難民問題は遠くて大きな問題ですが、友だちになればその人が幸せになるように何かできないかな?と自然と考えますよね。彼らと関わるのは本当に楽しいですよ。世界中から違う文化を持ち寄って、『へ〜、そんなことあるんだ!』と新しい発見をもらえます」

友だちになれば、難民問題も自分ごとになる。それは、取材の中でも自分の変化として感じていました。リヴィさんが出してくれた一杯のミルクティー。それを一緒に飲み、「おいしい!」「ありがとう」の言葉を交わしたことで、取材対象の難民のひとりから「お茶を淹れてくれたリヴィさん」という個の存在に明確に変わったのです。

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スリランカのおいしい紅茶を淹れてくれるリヴィさんが、日本で幸せに暮らしていけるように、私はご近所に住む友人として、これから自分にできることをしていくつもりです。「次はスリランカカレーを食べに来てね」。そんな約束をして、この日は別れました。

難民問題への向き合い方で、未来のセーフティネットがつくられる

取材が終わると、保育園のお迎えギリギリの時間。弾ける笑顔で駆け寄ってくる娘を見ながら、先ほどまでの取材をぼんやり反芻していました。

「今、私はこの子に安全な衣食住を与えているけれど、それを一生やり続けたとしたら、この子は幸せとはいえない。大人は子どものようには生きていけない。それはそうだよな......」

アルぺなんみんセンターとの出会いをきっかけに日本の難民問題に触れ、思ったことは「今の日本の難民の人々への対応は『日本人が難民になることはない』ことを前提とした、想像力に欠けた対応なのではないか」ということ。

明確な基準も期限もない中で、日本での難民認定というわずかな希望にすがり続ける難民たち。申請がなかなか通らないからと、自ら帰国を決断するように促しているのかもしれませんが、そもそも彼らには帰る国などない。結果、「期限のない日本への足止め」が生まれてしまっている。それが、人の人生を空白にしてしまうことをもっと重大に捉えるべきです。問題は違えど、私たちも新型コロナウイルスの流行による活動自粛の際、「いつまでこの状況が続くかわからない、将来が見通せない辛さ」を身をもって知ったはず。終わりを示さないというのは、ただそれだけでも、彼らの人生を不当に奪うという罪深い行為ではないかと思います。

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アルぺなんみんセンターから見た鎌倉の景色。入管に収容されてここに来た人は、この景色に涙することもあるという

子どもが生まれてから、「この子が将来私の手から離れ、どこへ行ったとしても、人間として尊重され、幸せに生きてほしい」と願うようになりました。世界各国で、人間が自分らしく生きられる体制を守り、つくっていくことは、自分たちがどこへ行っても幸せに生きられるという、未来のセーフティーネットをつくるのと同じこと。日本の難民問題への向き合い方も、そのひとつであるはずです。

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食堂に飾ってあったアルペの入居者たちの作品。

\ さっそくアクションしよう /

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