未来にバトンを渡す。国民の代表3人が描く社会 #豊かな未来を創る人
#豊かな未来を創る人 では、未来を創るために活動する様々な個人にフォーカスを当てて話を伺います。
今回は、各地域の代表であり、国の未来を日々考えている、国会議員を3名ご紹介します。
国家予算の議決や法律の制定など、国の重要な意思決定に関わる仕事を担う国会議員。2022年現在、衆議院465人、参議院248人、あわせて713人の国会議員が日本にはいます。
他の仕事ではなく、なぜこの仕事を選んだのでしょうか。それぞれ3名の実現したいことや思いを聞きました。
馬場雄基
1992年10月15日郡山生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科卒業後、三井住友信託銀行を経て、松下政経塾へ入塾(38期)。国内外で地方自治を学び、コミュニティ施設経営にまちづくりの可能性を見出す。アオウゼ事業統括コーディネーター、ふくしま地域活動団体サポートセンター連携・人材育成コーディネーターを経て、第49回衆議院議員選挙に立候補。比例代表で当選を果たし、全国最年少・唯一の20代衆議院議員・初の平成生まれの国会議員となる。故郷福島の復興を住民の手から実践している。
2045年が復興の一つの区切りになる
一人目に紹介するのは、2021年の衆議院選挙で初の平成生まれ・当時29歳で最年少当選した、馬場雄基さん(福島二区選出)。馬場さんは高校卒業直後に東日本大震災で被災。その経験を元に、福島の復興と、次世代のために国会議員になることを決断したといいます。
「もともと国会議員を目指していたわけではありません。地域の政治に興味はありましたが、身内に政治家がいるわけでもなく、具体的には想像できませんでした。どちらかといえば、現場から復興を進めていくことが自分の役割だと考えて、数年銀行で働いた後、何ができるかを考えるために松下政経塾に入りました。その後、コミュニティ施設の経営に可能性を見出して活動していたときに、声をかけていただき国会議員という選択肢が生まれました」
声をかけられた当初は自分には難しいと考え、断ることを考えていたといいます。そんな気持ちが切り替わったのは家族からの一言でした。
「妻に『怖がっているだけでしょ』と言われたんです。復興を成し遂げるためには、現場の活動も大切ですが、その本論を作っているのは国会ではないかと。私の中では、2045年が復興の一つの区切りだと考えており、そのときに復興と向き合う力のある政治家が必ず必要になります。自分がその存在を目指さなければならないと思ったときに、今選挙に出て選ばれるかはわかりませんが、挑戦するのも一つの道だと思い、決断しました」
「先輩逃げるんですか?」の声を引きずって
高校卒業式の10日後に被災した馬場さん。間もなくして大学進学のために上京するときに後輩から言われた一言が、今の活動につながっています。
「震災直後の4月、私は大学進学のために上京せざるを得ない状況でした。上京することを後輩に伝えると『先輩、逃げるんですね』と言われました。特に悪気のない何気ない一言でしたが、私の中では強烈に残りました。逃げたいわけではありませんでした。今も復興のために仕事をしているのは、あの時から絶対に逃げたくないと考えているからです。
最近、高校生1年生と話しましたが、その子たちは震災当時4歳。この次の世代は、震災を知らない世代です。処理水の問題でも大きな議論を呼び、国際的な理解醸成もできていない今。ましてやもっと難しい中間貯蔵廃棄物について、震災当時を知らない人たちに残すことだけは許されないと思ってます。我々知っている世代が責任世代として対応するべきと考えています」
福島第一原発事故に伴う除染で発生した汚染された除去土壌などは、原発に隣接する中間貯蔵施設に一時保管されています。これは、中間貯蔵開始後30年以内(2045年3月まで)に福島県外で最終処分を完了するために必要な措置を講じることが法律で定められていますが、そのための議論を今からするべきだと馬場さんは考えています。
「政治の世界では、過去や今の話が中心です。これから、未来に対して危機感や覚悟を持って、今やらなければならないことがあるはずです。その決断がなされていないこの状況を変えていきたいです」
私たちが未来に受け継ぐべきもの
東日本大震災から10年以上経ち、大熊町や浪江町への立ち入り規制も緩和され、復興はだいぶ進んでいるとの見方もあります。馬場さんは復興をどう捉えているのでしょうか。
「復興を定義することはすごく難しいと考えています。何かができたから復興だというつもりも全くありません。仮に、処理水がなくなりました、土もきれいになりました、燃料デブリがなくなりましたとなっても、それが復興かといわれたらそうではないと思っています。
あえて言葉にするなら、あの時の教訓をしっかりと腹落ちさせた上で、一人ひとり、あるいはそれぞれの地域で活動をし、起こしていくこと。何かハコモノができて、テープカットしたときがゴールじゃなくて。その時点をスタートとして、その先のことを踏まえてコミュニティがどうなっていくか、住民が創造的な活動をできているのか、そういうところが本当は一番大切な復興という姿ではないかと私は思っています」
何かが戻ることではなく、当時の経験を踏まえた上で次に向かう。そのために「受け継ぐ」ことが大事だと馬場さんは続けます。
「国会議員になって分かるのは、あの当時の想像を絶するような体験をしている人たちがいること。私はしがなき高校生で、何もできなくて無力感しかなかった人間です。その人間が国会議員という立場になったからには、あの時のことをしっかりと受け継ぐ責任があると思ってます」
受け継ぐべきことは。言葉にしきれないさまざまな思いがあるといいます。
「何を受け継ぐべきかについては、もう少しゆっくり考えたいところですが、一言で言うならば言語化できない想いです。やっぱりつらいんですよ、あの時のことを思うと。被災する人の声を聞きながら、避難命令が出て行かなければならなかった無念さ。
また、政治サイドのことも国会の中に入ってはじめてわかってきました。政治家がどんな決断をしたのか。メディアでは散々に言われていましたし、私自身も散々に思ってきた人間です。はっきり言ってトラウマしかないですけど、トラウマで逃げては絶対ダメだと。中に入って、その時の真実をしっかり知ることが絶対に必要です。誰も触れたくないところをきちんと読み解くこと。言葉にできない覚悟が、当時の野党にも与党にもそれぞれの側にあるわけです。
その言葉にできないものを、しっかり自分の中に落とし込み、その上で創造していくことが求められていると感じます。当時、政府の責任者を務めていた方が多く在籍している立憲民主党から出馬したのもそれが理由です。当時起きたこととその中での決断を、さらに次の世代に受け継ぐ役割を担っていると考えています」
向き合い続ける姿を見せる
国会議員である以上、福島以外のテーマも扱います。それに対しては「まずは与えられた役割を絶対に120%で返すことを意識しています」と話す馬場さん。震災復興、特に原発の話題は様々な意見を持つ人がいるので、扱うのが難しい上に、発言すればするほど、批判が出やすいテーマ。それでも、当時高校生だった自身が国会議員になったことに意味があると考え、このテーマと真剣に向き合い続ける。それは、次世代に負の遺産を残さないためだと覚悟を決めています。
「将来、2045年に向けて決断を下すような人間になれたとしたら、覚悟が必要だと考えています。でも、誰かがやらないと次の世代にいってしまう。震災を知らない世代に、対応を任せっきりにするのは絶対にダメです。
ただ、この問題は簡単とも思っていません。私の挑戦は成功体験にならないかもしれません。それでも、失敗したその汗を見せたいと思っています。失敗して、これでもダメだ、これでもダメだ、これでもダメだとやり続ける姿があれば、必ず次に続く人間はいると思います。私自身が実現できなくても、良くなっていくきっかけをつくることはできる。それでいいと思っています。先発隊は、成功するとは限りませんから。私が実現できなくても、チームとして当時を知る世代の中で、成功する人が出ればいい。そのための一助になればいい。そういう気概でやり続けます」
次世代、子どもたちの未来のために国会議員の道を選んだのは、次に紹介する寺田静さん(秋田県選出)も同じかもしれません。
寺田静
1975(昭和50)年、横手市生まれ。横手城南高校中退後、大検取得、育英会の奨学金を受け早稲田大学入学。卒業後、東京大学生産技術研究所勤務。米国留学後、寺田学や川口博両衆議院議員らの公設秘書、電気自動車普及協会を経て、2019(令和元)年参議院議員選挙秋田県選挙区初当選。 参議院環境委員会委員。児童虐待から子どもを守る議員の会、インクルーシブ雇用議連、LGBT議連、自殺対策推進議連、国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)議連、フリースクール推進議連、ママパパ議連、動物愛護議連などに所属。全ての子どもの育ちと学び、ジェンダーギャップの是正、里親委託の推進、環境問題、地方が抱える課題等に取り組む。夫と息子(小学生)の3人家族。
未来に後悔したくない
寺田静さんは、2003年に後に夫となる寺田学さんの衆議院選挙を手伝ったことをきっかけに、議員秘書という立場で政治と関わってきました。社会を良くするという思いを持ちながら働く中、2019年の参議院選挙で与党の対立候補として出馬することになります。その決め手は、子どもが育った未来に後悔したくない、という思いでした。
「地元の秋田県が、陸上配備型迎撃ミサイルシステム『イージス・アショア』の配備候補地になったことが大きなきっかけでした。突然、秋田県か山口県に配備を検討していると政府から発表されて、参議院選挙が県民の意思を反映する場になると言われていたのですが、野党の候補者がなかなか決まらない状態が続いていました。そんな中で、現職議員の妻であり、義父が元秋田県知事という知名度の高さから、私に声がかかったのだと思います。
20年近く夫の仕事を側で見てきたので、政治家になる怖さや重大さは身をもって感じていましたし、子どもも小さかったので、選挙に出るかは相当悩みました。ただ、ミサイルシステムは一度配備されたら、数十年は動かないものです。それを、自分の子どもも含めて秋田の子どもたちに残していいのか。子育ては大事ですが、未来のことを決めるこの選挙の話を断って、基地が配備されたら将来後悔するのではないかと感じて、立候補を決めました」
生きづらさを抱える一人に寄り添う社会に
「孤絶する1人、苦しむ1家族のために、99人が配慮する社会は作れないのか」
この言葉は、寺田さんのウェブサイトでも掲載されている問いです。この言葉を掲げる背景には、寺田さん自身がさまざまな困難を経験してきたからこそ、政治家として実現したい社会を表した言葉でもあります。
例えば、障害のある当事者とその家族の感じる生きづらさの問題。寺田さんの弟は、寝たきりの植物状態になり、1年3ヶ月の闘病期間の末に亡くなっています。
「介護をしていた母の体重が一時期30キロ台になるぐらい、家族が苦労するということを多少なりとも経験しました。今の日本では、障害のある人の家族がその責任を一義的に背負わなければいけなくて、支援があまりにも乏しいと感じています。また、未だに障害児は幼稚園や保育園に入ることが難しいという現実もあります。障害が重ければ重いほど預け先が見つからない。両親は、自分たちが亡き後のことをずっと心配しながら人生を歩まなければならない。そういったところの政策は変えなければいけないなと思っています」
また、寺田さんは子ども時代に不登校になった経験もあり、教育に対する思いも強く持ちます。
「中学3年生で転校したとき、管理される教育が合わずに卒業までの5ヶ月間不登校になりました。高校は楽しく過ごしていたのですが、進路指導などを通じて、再び息苦しさを感じて、3年の5月に中退しました。当時は学校で前髪を1センチ切ってこいとか、スカートが3センチ短いとか、先生が私の中身ではなく外側にしか関心を持ってないことにすごくモヤモヤしていました。一方で、非行に走っているような子には何も言わなくて、本当に助けを必要としている生徒には何も関心を払わない二面性に違和感がありました。今になって、先生も余裕がない状況だとわかり、先生たちが働く環境の整備も大事だと感じています」
学校が決めた型に生徒を当てはめるのではなく、子どものありのままを受け入れる環境が大事だといいます。
「日本の学校では、明るく、美しくとか、そういった目指すべき像を標語で表したりしていると思いますが、そうじゃないですよね、と。本来の姿は、その子のあるままを受け止めて、その個性や自主性を伸ばすことが大事ではないかと思います。私もフリースクールでボランティアをしていたこともありますが、そこでは目の前にいる子どもしか救うことができないかもしれませんが、政治家として教育行政に関われたら、日本全国に波及することができます。そういう仕事ができることは、すごくありがたいことだとやりがいを感じています」
課題解決の糸口は、女性議員が増えること?
その他にも、子育て環境や女性の社会進出など、さまざまなことに関心がある寺田さん。テーマを絞りきれないと感じつつも、女性議員が少ないことが根本の原因かもしれないと感じています。
「さまざまな問題を突き詰めて考えると、政治の世界に女性が少ないが故に、放置されてる問題が多いのではないかと、自分がこの立場になってあらためて実感しています。以前は、女性が抱える問題に理解のある議員であれば、男性でもいいという気持ちでした。ですが、子育てや介護など、ケアワークと言われる領域の多くを女性が引き受けているという現実から、やっぱり女性にしか見えていないものがあるというか、感覚の違いがあることを実感しています。
数年前に話題になった、保育園に入れなかった女性が憤りをブログに綴った問題なんかもそうだと思います。保育園に入れなければ、仕事をやめなければならなくなる女性の気持ちや状況を本当に理解していた人は、永田町にどれだけいたのでしょうか。同じ女性でも、議員はずっと恵まれた立場だと思います。自分の事務所があって、スタッフもいます。いざとなればちょっと子どもを見てもらうこともできますが、多くの人がそうではない環境で、そんな中で保育園に入れないのは重要な問題。ましてや、いまは保育園の質の問題も問われていて、そんなところに預けるくらいなら自分が仕事をやめて、子育てに専念をした方がいいとか、 そういう女性たちの気持ちは理解されていない。そういうことろも変えなければと思っています」
女性議員が増えるために、何が変わらなければならないのでしょうか。寺田さんは、一つはハラスメントをなくすことだといいます。
「私の場合は、夫も同じ国会議員ということで、国会でも地元でもハラスメントの類いに合うことはほとんどありません。ただ、他の女性議員たちの話を聞くと、ハラスメントは日常茶飯事です。どんな事情があろうとも『この会に来なかったら次は応援しない』と言われることもあれば、街頭活動中に『家に帰って子育てをしろ』と罵られたり。開いた口がふさがらないようなことが起こってるんですよね。他にも、飲み会で大事な話が進んでいて、子育て中で飲み会に参加できないと人間関係が築けなかったり、地方では昔の名残で自宅住所や電話番号が公開されていて、いやがらせがあったり。こういう現実がある以上、女性に政治家になってほしいとは言いづらいですよね。ハラスメントを一つひとつ根絶しなければと思います」
持続可能な状態で次世代に手渡す
さまざまな課題に取り組むことで、社会を少しでも良くして次世代に引き継ぐことが寺田さんの願いです。
「持続可能な社会をつくることが、子どもたち世代に対しての責任だと考えています。正直、いまの日本は全く持続可能ではないと思います。20代の頃に『人間を幸福にしない日本というシステム』という本が話題になりましたが、その頃から変わっていないことが多い。環境問題も、少子化問題も、地方も、産業も、様々なことに閉塞感があり、光を感じられません。社会を少しでもよくして、次の世代に渡すのが私たちの責任だと思います。おそらく、次の世代ではまた別の課題が生まれてくると思いますし、気候変動のような問題はすぐに解決ができる問題ではなく、技術革新に頼らざるを得ない部分もあるかもしれません。それでも、喫緊でやらなければならないことには道筋を付けて、その先を任せられるようにしたいです」
持続可能な社会をつくる。それは、最後に紹介する国光文乃さん(茨城6区選出)が目指す世界でもあります。
国光文乃
昭和54年山口県大島郡久賀町(現周防大島町)生まれ。先祖代々みかん農家。
長崎大学医学部医学科卒業後、国立病院機構災害医療センター、東京医療センター等に勤務。2005年厚生労働省に入り、厚生労働省老健局老人保健課主査として、感染症対策(新型インフルエンザ対策等)介護保険、がん検診、災害対策、診療報酬などの政策にたずさわる。その間に渡米し、カリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)公衆衛生大学院修士課程修了。2010年東京医科歯科大学大学院博士課程修了。自民党の政治塾に入り、元厚生大臣の丹羽雄哉の後継者に指名されたことで、2017年1月に厚生労働省を退職(役職:保険局医療課課長補佐)。2017年の第48回衆議院議員総選挙で自民党公認候補として茨城6区から出馬し初当選。2021年10月31日、第49回衆議院議員総選挙にて再選。
政治でないと意思決定できないことがある
国光さんは、医師としてキャリアをスタートした後、厚生労働省勤務を経て、2017年に国会議員になりました。原点の思いは、医療の地域格差をなくすことだといいます。
「もともと内科医として働いていましたが、色々な課題に直面しました。その一つが、医師や看護師の偏在です。医療は命を守るために本当に必要なものですが、都市部や東京では飽和しているのに、田舎では足りていない。その状況はサステナブルでないと考えています。はじめは現場から情報発信をしていました。ただ、政策を変えたほうが早いと考えるようになり、厚生労働省で技官として働くことにしました」
厚生労働省では、感染症対策(新型インフルエンザ対策等)、介護保険、がん検診、災害対策、診療報酬など、さまざまな政策に携わってきました。政策立案の仕事をする中で、なぜ国会議員を目指したのでしょうか。
「厚生労働省で政策を立案していくなかで、やっぱり最後の大きな意思決定をするのは政治なんだと、何度も直面しました。たとえば、医師の偏在を是正するために何かインセンティブをつけようとしたり、最近ですと新型コロナウイルス感染症対策で経済支援をしたりするときに、財源の問題にあたります。財源をどう確保するか、どう分配するかといった決定をするには、一人の役人では限界があります。大きな意思決定をするときは、政治がリーダーシップを取らなければならない。政治が変わらなければ、現場も変わらないと思うことがあり、政治の道を志すようになりました」
加えて、多様性のある社会を実現するためにも、政治を動かす必要があると考えていたといいます。
「政治家を身近で見ていたので、その大変さは感じていました。子どももまだ小さかったので悩みもありました。ただ、日本の多様性に対しても課題感を感じていて。日本の社会はまだ多様性に欠けていて、制度に守られている人と、そうでない人の差が激しい。また、子育てや妻としての役割を期待される女性が働き続けるのはとても大変です。そういった社会を変えて、それぞれが輝けるカラフルな社会にしていきたいと思っていて、そのためには政治を動かさなければならないと考えていました」
さまざまな立場を経験したからこそ見える世界
国会議員の立場になり、これまでと変わったことは何があるのでしょうか。一つは、意思決定に関わる立場になったことだといいます。
「大きな政策の意思決定に関わることができるようになったのは、良かったことです。若い世代にもっと財源が回るようにしたいと考えていて、一つ実現したのは、『出産育児一時金』の引き上げです。
一人につき42万円の一時金が支給されていましたが、出産費用の相場は年々上がり、都市部を中心に70、80万円も多く、妊婦さんや子育て世代の皆さんから、負担軽減を求める声をたくさん頂いてきました。
『日本は世界一の少子化スピードなのに、子育て世代に負担がしわ寄せされる状況はおかしい』と奮起し、議員でチームと作り、関係者の調整と要望を繰り返した結果、総理から『大幅に増額する』と宣言いただき、実際に、令和5年4月に、42万円から50万円の増額が決定しました。
また、病院と価格引き上げのイタチごっこにならないように『出産費用の見える化』を進め、病院側に明細などかかる費用内訳を出していただくことになりました。
安心安全を担保した上で、最低限の費用で出産したい方、特別な食事やリラクゼーションなどをもやってほしい方など、それぞれの希望に合わせられる『妊婦さんが選べる出産』にしていければと考えています。
政治は皆さんの代弁者です。皆さんの声から実際に制度を動かすことができ、大きなやりがいを感じています」
また、地域の代表の立場になったことで、社会を多角的に見るための視野が広がったといいます。
「議員になって、自分は医療のことしかほとんど知らなかったとよく分かりました。専門家だったらいいのですが、私は茨城の地域を代表する立場。いろいろなことを知り、それぞれがつながって1つの社会を作っているということが実感できるようになりましたね。
たとえば医療に関わるところでいうと、救急搬送をいかに早くするかというテーマがありますが、そこには道路事情が密接に関係しています。また、健康でい続けるためには、食などの普段の生活が大事です。ではそのための農産物をどうやって安定的に育てるか。そこには、ウクライナの戦争や円安といった問題も絡んできます。さらには、エネルギーや安全保障までつながっている。SDGsの和のように、それぞれの専門がつながっていると実感できるようになったのは、大変なことも多いですが、とてもやりがいがあります」
未来はみんなでつくる
さまざまな専門性や課題があり、それぞれが複雑に絡んでいる現代社会。それぞれの立場の意見を取り入れ、みんなで社会を作っていくために、特に若い世代とももっと話す機会を作りたいと国光さんは話します。
「良い社会、持続可能な社会を作っていくために、やっぱりみんなで参加して、一緒に作っていけたらと考えています。そのためには、もっと若い世代の人と話す機会も増やしたいです。国会議員をしていると、お会いする方がある程度狭い範囲になってしまうことがあります。たとえば、どこかの公民館で政策に対する意見を聞かせてくださいという会をしても、ほとんどが高齢者です。みなさんが思っている以上に、50代以下の方に自然体だとそこまで会えていません。そうすると、政治家や政策にバイアスがかかってしまいます」
実際、シルバー民主主義と言われるように、高齢者に優遇した政策が多く、子どもや若者に財源が回っていない側面もあります。国光さんも、若い世代の人ともっと気軽に意見を交換したいといいます。
「日本では政治家は関わってはいけない人の様なイメージがありますよね。でも、他の国では若い人がうまく政治家を利用して、自分たちの困っていることを解決しているんですよね。なかなか動かない問題も若い世代がマジョリティになって発信していただけたら、世界が変わってくるのかなと思います。今はSNSも普及していますし、お互い一方通行ではなくて、インタラクティブに困っていることや、なんで国会ではこうしてくれないのとか、建設的に話せる機会を作っていきたいです」
次世代に過度な負担を残さない
最後に、国光さんが次世代に残したい社会について聞きました。
「どこに住んでいても、インクルーシブでサステナブルな社会を作りたい、というのが原点にあります。医療もそうですし、子育てなど課題があることの根本には、財源が偏っている部分が大きいと考えています。特に年代によっての偏りが大きいので、そこを変えていきたいと私は考えています。
私の子どもは今14歳ですが、子ども世代がこのまま大人になったとき、一般的な財政議論でいえば、消費税が30%くらいにならないと賄えないような給付と負担のバランスになってきます。そういう社会を作ってしまっていて、その状態で渡すことになるので、本当に責任を取れる政治なのかとは思っています。次世代には、財政もですし、他のいろんなことでも、過度な負担を積み残さない社会を作っていきたいです。
こういうことをいうと、上の世代の支持者が離れるといわれたりもしますが、地元を歩いて、少し余裕のある世代の方と話すと、若い人たちは大変だよなという話しになります。自分たちの負担を少し増やしてもいいかもしれない、ということも言ってくれます。そういったことも踏まえて、財源を困っている人や若い人のためのサービスの原資に当てていけるような社会や政治にしていきたいです。私はそれが、責任感がある政治であり、持続可能な社会ではないかと思います」
責任を持って未来に社会を渡していく。それは、3人が共通して持つ志でもありました。
今回は、3人の国会議員の話を伺いました。普段、テレビや新聞では名前を目にしていても、政治家を目指した背景や、その思いを聞く機会はなかなかなく、遠い存在に感じていた方も多いのではないでしょうか。
実際にお話を聞いてみると、あらためて「国」という大きな視点で物事をみている一方で、それぞれが各「地域」の代表であり、身近なテーマから出発していることがわかりました。
「政治家」と区切るのではなく、一緒に未来をつくるひとりの仲間として、身近な困りごとや疑問を相談してみるのもいいのかもしれません。