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豊かな未来のきっかけを届ける

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「異なる他者」は社会を強くする。TV局アナウンサーから難民支援の道へ。#豊かな未来を創る人

Yahoo! JAPAN SDGs編集部

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ロシアによる侵攻が始まってから、1年以上が経過するウクライナ。現地のUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)で報告担当官として働く青山愛さんは、侵攻が始まった2日後から、緊急支援チームに加わり支援活動を続けています。

6年前までテレビ局のアナウンサーとして働いていた青山さん。メディアの発信に携わっていた当時も、国連で難民支援を行う今も、目を向けてきたのは、社会において異なる存在とされる人々の声でした。

多様な背景を持つ人たちが、社会で共に生きていくために必要なこととは? 現在のウクライナでの活動、そして難民支援に携わるきっかけとなった学生時代の体験、そこから思い描くこの先の在り方について伺いました。

(2023年4月11日取材)

青山愛(あおやま・めぐみ)

UNHCRウクライナ・報告担当官。1988年、広島県生まれ。幼少期をNYで過ごす。その後一時帰国し、12歳で再び渡米。高校2年生まで、テキサス州の学校に通う。その後、京都大学経済学部に進学。2011年テレビ朝日にアナウンサーとして入社。「報道ステーション」やバラエティ番組「マツコ&有吉の怒り新党」、国際報道番組「いま世界は」を担当。2017年退社し、アメリカの外交大学院に進学。2020年、UNHCR本部の渉外担当官として、スポーツ分野でのパートナーシップ構築を担当。東京パラリンピックでは難民選手団のサポートを行った。2022年からウクライナ緊急対応チームを経て現職。

侵攻が長期化する中で続ける支援活動

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キーウにあるUNHCRの事務所で、オンライン取材に応じる青山さん。

── ウクライナ入りをして1年以上が経ちました。現在、UNHCRウクライナの報告担当官として、どのような仕事をされているのでしょうか。

私の仕事は、「支援を必要とする人」と「支援をする人」をつなぐことです。

刻々と変わる現場が今、どんな状況で、どんな支援が必要なのか。それを把握するために、現地当局とも連携しながら、ウクライナの人々にヒアリングをします。そして、そのニーズに対応するため、UNHCRがどんな支援を行っているかをまとめて、支援してくださるドナーや連携しているパートナー団体に報告しています。

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ウクライナ西部にある女性と子ども専用の避難施設で、在住者に話を聞く。(本人提供) 現在、ウクライナ国内で避難を余儀なくされている人は500万人以上

── 侵攻が長期化する中、支援の状況はどう変化していますか。

支援のニーズに、地域差が出てきています。今も激しい戦闘が続いている東部や南部のフロントラインといわれる地域。そこには、高齢者や身体が不自由な方など、社会において最も脆弱な方が取り残されていて、まだまだ命をつなぐための人道支援が必要です。

一方で、西部や中部の地域は、東部や南部に比べるとセキュリティの状況が安定しつつあります。そのため、徐々に復旧・復興へのニーズに切り替わってきている印象を受けます。少なくとも数年間は故郷に戻れず、避難先で暮らさざるをえない方々がどう生活を再建していくのか、中・長期的な視点に立った支援が必要といえます。

例えばUNHCRでは、人々が避難先で就労するためのリスキリング、破壊された家の修復や建て直しなどの支援を行っています。また他にも力を入れているのは、国内避難民と受け入れ先の地域の住民たちが交流するプロジェクト。それぞれのコミュニティ間での摩擦を防ぎ、平和に共存していくための試みが、これから長期的に大切になってくると考えています。

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2023年1月、キーウ州オゼルシチナ村。ロシア軍のロケット弾により破壊された家。屋根と壁が修理され、新しい窓とドアが取り付けられた。© UNHCR/Diana Zeyneb Alhindawi

数の先にある一人ひとりの物語に目を向ける

── この1年間で、心に残っていることはありますか。

本当にたくさんの出来事があったのですが。強く記憶に残ることを一つあげるなら、ウクライナに入って1か月ほど経った頃のこと。当時は西部にあるリビウにいたのですが、街の壁に犠牲となった方々を追悼する写真が、何枚も何枚も、ずっと遠くまで掲示されていた光景です。

UNHCRに入って3年目、私にとって初めての戦地での任務。命を奪われた方々や、故郷がぼろぼろになり家を離れざるを得なくなった方々など、増え続ける被害の様子やデータを、混乱する現場で毎日必死に集めて報告していました。

どこかで心を麻痺させないと続けられない。そう考えるようになり、できるだけ淡々と被害状況の数字をレポートするようにしていました。そんなときに壁一面に貼られた犠牲者の方々の写真を目にして、こらえていた涙が初めて出ました。

それまで自分が扱っていた数字が、一つひとつ生身の命とつながっていくような感覚があったのです。あまりに残酷な状況を自分が苦しいと感じても、人々がそれぞれのストーリーを生きた事実、そして犠牲にしたものに、しっかり目を向けないといけない。それを伝えることが私の仕事なのだと、強く感じたことを覚えています。

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2022年3月、ウクライナ西部のリビウ駅の様子。東部や北部、中央部から大勢の人々が避難してきた。© UNHCR/Valerio Muscella

── 第三者として当事者の声を伝えることは、とても難しいことではと感じます。

そうですね。どんなに私が思いを馳せたとしても、みなさんが抱える悲しみや苦しみを本当の意味で理解することはできない。だからこそ、その方々の感情を私が解釈をして語るべきでないと思っています。私がみなさんの代弁者にはならない。そのことをいつも心に留めています。

報告書では、当事者の言葉をできる限りそのまま伝える。支援をしてくださるドナーやパートナーとの会議では、国内避難民の方の声をビデオや録音した形で、そのまま届ける。そうやって、なるべくみなさんの声と想いがありのままに、正確に外の世界に届くように意識をしています。

学校のトイレで弁当を食べた学生時代

── そもそも今のような国際貢献の分野に関心をもった原点を教えてください。

親の仕事の関係で、中学校から高校2年生までアメリカのテキサス州で過ごした経験が、大きく影響しているように思います。

当時私が暮らしていた地域は白人社会でした。アジア人はほとんどおらず、日本人は学校で私一人だけ。始めは仲間に入れず、ランチのときは同じテーブルに座らせてもらえませんでした。

だから最初の2〜3か月は、トイレに行って一人でお弁当を食べていた記憶があります。母にも「おにぎりではなく、みんなが持ってくるようなピーナッツバターのサンドイッチにしてほしい」とお願いしたりして。

多感な時期にそうした体験をしたことが、自分の中ではとても大きかったように思います。肌の色や国籍、価値観、文化的なバックグラウンドがみんなと違う。つまり、自分が社会における「異なる他者」であることを実感しました。

いつか、自分と同じような思いをする人の側に立って何かしたい。そしてそれを、さまざまな国の人たちが一つの目的のために働く、国際機関のような場所でできたら。そんな漠然とした憧れのようなものを、中学生の頃から抱いていました。

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── そこから日本の大学を卒業して、テレビ局のアナウンサーとなられました。

大学生の頃に、マレーシアへのスタディツアーに参加したんです。そのときに中東の衛星テレビ局アルジャジーラの事務所を訪問する機会があって。そこに「声なき声に光を」というスローガンが貼ってあったんです。

それを見たときに、メディアというのは、マイノリティや脆弱な立場にある方など、社会に埋もれてしまっている人たちの声に光を当てられる仕事なのだと知りました。それで就職活動のときに、テレビ局を受けてみようと。

今思うと、テレビ局で働くことも、現在と手段は違えど、中学生の頃に抱いた思いを実現するための一つの方法だったのだと思います。

── その後、6年間勤めたテレビ局を退社されます。このきっかけは?

国際機関で働きたいという思いがずっとあったんです。自分の思いをなかったことにして終わらせず、やっぱりチャレンジしてみたいと思いました。

さらに、報道番組に携わる中で、フレッシュなニュースを、早いサイクルでどんどん回さないといけない現実も知りました。幅広く社会課題を世の中に伝えることの重要性とマスメディアのインパクトを感じつつも、もう少し一つの課題に対してコミットしてみたいと感じるように。それで退職を決意しました。

── 退職後、2017年からアメリカの大学院で国際開発について学ばれました。さまざまなテーマがある中で、なぜ難民問題にフォーカスされたのでしょう。

そうですね。ジェンダーや教育など他のテーマについても、もちろん興味がありました。そんな中で、私が大学院で学んだ時期は、特に2015年に起きたヨーロッパの難民危機について授業でディスカッションする機会がとても多かったんです。実際に、クラスメイトに長い間難民キャンプで暮らしていたという難民の生徒もいました。

「異なる他者」であることによって迫害されたり、国を追われたりする人たちがいる。難民問題について学べば学ぶほど、自分の根っこにある思いと重なるものを感じました。それでUNHCRで働くことに興味を持ちました。

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国際開発・人道支援の修士を取得した、大学院卒業式にて。(本人提供)

── 実際に、現場に出て難民や国内避難民の方々の支援をする中で、何を感じましたか?

私が支援を届ける側というよりも、現地の方々から与えてもらうことや学ぶことの方がずっと多いということです。

ここウクライナでは、高齢の女性の話を聞く機会がよくあるのですが、毎回みなさんの強さやたくましさに触れています。昨年末に会ったカテリーナさんは、家が破壊されてまだぼろぼろなのに、庭仕事を始めていて。「この冬を乗り越えて、春になったら、私はここで野菜を作らないといけないから」と、懸命に前を向いていました。

今年2月キーウ近郊の村で出会ったニナさんは、お孫さんを戦闘で亡くされていたにもかかわらず、気丈に出迎えてくださって。私が「毎朝起きようと思うモチベーションはどこからくるのですか」と尋ねると、こうおっしゃったのです。「それでも私たちは生きるしかないから」と。

適切な言葉が見つからないのですが、全てを失ってもなお、他者に感謝をしながら、温かさを持って生きようとする方々と接する度に心を動かされます。生きることを諦めずに、生活を再建しようとする人たちと過ごしながら、そのプロセスに携わらせていただくことがprivilege (光栄)だと感じます。

私は「人道支援家として」とか、何か崇高な思いや壮大なミッションを持っているわけでは決してなくて。朝起きると、「私にも何かできることがある」。ここで私が仕事を続ける理由は、本当にシンプルなのだと思います。

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2023年2月、キーウ近郊のコロリウカ村で。ロシア軍の攻撃により自宅が被害を受け、孫を戦闘で失ったニナさんのもとを訪れた。(本人提供)

他者を受け入れてこそ発揮できる自分らしさ

── 今、世界で故郷を追われている人が1億人以上いる一方で、日本ではまだまだ難民が遠い存在であるように感じます。

ありきたりな答えになってしまいますけれど、やはりまずは知ること。そのために例えば日本でも、難民の方々が学校に訪問をして一緒に何かをするなどの機会が増えればと思います。そうした過程を経ることで、知らない国の「難民」という括りではなく、一人の人として想像力を働かせることができるのではないでしょうか。

そして何より、今回のウクライナの人道危機では、日本のみなさんからたくさんの支援が届きました。遠く離れたウクライナにこれだけ思いを馳せることができるのであれば、例えば南スーダンやイエメン、エチオピアの方々にも、思いをつなぐことがきっとできると感じます。そのためにも、現状を発信し続けるのが私たちの役割だと思います。

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空襲警報が鳴ると、オフィスの地下の防空壕から仕事を続ける。今ウクライナにはUNHCRの拠点が11か所あり、400人近いスタッフが働いている。(本人提供)

── これからの世界で「異なる他者」が共存していくために、青山さん自身が大切だと思うことを教えてください。

相手を受け入れる勇気みたいなものでしょうか。やはり自分と違う考えやバックグラウンドを持っている相手は、初めはどこか怖い。もしかして自分が否定されるのではないかと。

特に難民の場合は、グローバルに見ても、これまでネガティブなステレオタイプで語られることが多かったと感じます。難民を受け入れると、自分たちの国にある既存のものが壊され、文化が変わったり仕事がとられたりしてしまうのではと。だから差別を受ける人も多いわけですが、やはりそうではなくて。

異なるからこそ、自分一人では到達できなかった新しい視点をもらえたり、これまで気づけなかった自分の強みを教えてもらえたり、新しい行動を起こすきっかけをもらえたり、享受できるものがたくさんあると思うんです。

つまり異なる他者は、社会を弱くするものではなく強くする。そんな風に捉え方を転換していけたら良いなと考えています。

── 特に日本の社会は、世間であるべきとされる価値観から少しでも踏み外すと、生きづらい側面もあります。

そうですね。ですが、ダイバーシティやインクルージョンなどの言葉がバズワードとなっているように、それぞれが異なる他者として輝ける社会は、すごく生きやすいと思うんです。どんな自分であっても受け入れてもらえて、自分なりの道を築くことができるから。

他者を受け入れることは、自分の存在が揺るがされることではなく、むしろそれぞれの人が自分らしさを発揮していく過程において必要なことだと思います。

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2021年夏、東京2020パラリンピックで難民選手団に同行。夢を叶える難民選手をサポートした。(本人提供)

── そうした社会にしていくために、これから取り組みたいことはありますか。

難民のみなさんと過ごす中で、「難民だから」と諦めたり、枠にはめられたりしてしまうのではなく、難しくても自分の可能性を信じて歩もうとする姿がとても印象に残っています。

私も昔は、自分がウクライナに来て、ミサイルやドローンの攻撃に耐えながら現地の方々に寄り添って仕事をすることなど、自分にできるとは思っていませんでした。でも、できないと思ってきたことをやることが、未来を切り開くのだと、今なら、実感できます。

だからこそ、この先も自分にリミットを設けず、誰かが光を見出して生きることに、少しでも貢献するような仕事ができればうれしいです。それが、私もまた異なる他者の一人として、自分らしく生きていくことにつながっていくのだと思います。

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  • 取材・文木村和歌菜

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