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「プラスチック問題は60年前からあった」専門家が考える対策の進まない理由

    

エコトピア

村田さん

海洋プラスチック汚染対策をどう進めたらいいのか。国際的に大きな問題となり、環境省もプラスチック資源循環戦略を策定し、海に流出する率の高い使い捨てプラスチックの排出削減に取り組みはじめた。だが、プラスチックは軽くて便利で、生活に欠かせない。どう付き合ったらいいのか。どうすれば減らすことができるのか。化学物質やプラスチック問題に詳しい村田徳治・循環資源研究所長に語ってもらった。

── 村田さんは海洋プラスチック汚染問題をどう見ていますか?

これまで政府の取り組みが遅れていたということでしょう。EUでは使い捨てのプラスチック製品を規制する法案が審議されるなど、日本よりもいち早く取り組み始めました。2018年にカナダで開かれたG7シャルルボワ・サミットで、カナダが提案した「G7海洋プラスチック憲章」を日本とアメリカだけが署名しませんでした。国内の整備体制が整っていなかったとの理由ですが、2015年にドイツで開催されたG7エルマウ・サミットで、海洋プラスチック問題に対処するアクションプランが定められていますから、迅速な対応ができていなかったといえるでしょう。

── ここにきて日本政府も2019年5月にプラスチック資源循環戦略を策定したり、同年に大阪で開いたG20サミット国・地域首脳会合で、2050年までに海洋プラスチック汚染のゼロを目指す大阪ブルー・オーシャン・ビジョンを共有したり、前向きの姿勢に変わっています。

ただ、プラスチックを減らす具体策となると、いまのところレジ袋の有料義務化を7月から実施するぐらいにとどまっており、根本的な見直しがされていません。これでは、プラスチック問題は解決しません。

── 村田さんは化学に強い技術コンサルタントとして、国の委託調査を手がけたり、多数の著書をあらわしたりしています。自治体の環境関連の審議会委員も務めてこられました。プラスチックの歴史を環境面から振り返っていただけませんか。

村田さん
「海洋プラスチック汚染の防止のためにはリサイクルは重要ですが、私はケミカルリサイクルを推奨したい」と語る村田さん(杉本裕明撮影 転載禁止)

プラスチックには長い歴史があります。最初に登場したのはセルロイドです。1863年にアメリカで天然の高分子のセルロースをもとに造ったニトロセルロース(硝化綿)に樟脳とアルコールを混ぜて可塑化(力を加えて変形しても元に戻らない性質を上げること)したもので、おもちゃや文房具に使われました。その後、セルロースからはレーヨンが発明され、20世紀に入ると次々と新しいプラスチックが開発されていきます。

しかし、いまのプラスチック社会といわれるようなプラスチック製品であふれるようになったのは、戦後の石油化学の時代を迎えてからです。石油精製工場で原油はガソリン、ナフサ、灯油、軽油、重油などに分けられます。ナフサからガスや液体の形で小さな分子が集まったモノマーをつくり、それを結合させて高分子化合物のポリマーができます。それに様々な配合剤を加えたものがプラスチックです。その結合の仕方をいろいろ変えてやると、いろんな特徴をもったプラスチックができます。ポリエチレン(PE)とかポリプロピレン(PP)の名前は聞いたことがあるでしょう。

── ところが、石油から造られた便利なプラスチックが環境に悪影響をもたらしました。

大きな社会問題になったのが1960年代になってからです。プラスチック製品が急速に普及するようになると、ごみとして排出する量も増えていきます。家庭では燃えるごみに混ぜて出しており、それを清掃工場で燃やしていましたが、やがて各地の清掃工場が異常をきたすことになったのです。プラスチックごみの中には熱量が11,000キロカロリーもあるものがあり、燃やすと高熱で、炉を傷めます。当時は2,000キロカロリー以下の可燃ごみを燃やすことを前提として清掃工場は造られていましたから、焼却炉の耐火レンガが崩れるなどのトラブルが相次ぎました。さらにプラスチックを燃やすと有害な塩素ガスが発生します。それが大気中に出ないように対策をとらねばなりませんでした。

── 国は対策をとらなかったのですか。

自治体関係者に伝わる逸話が残っているのですが、1970年の廃棄物処理法が制定される少し前のことです。川崎市の清掃局長だった人に工藤庄八さんという方がいました。全国の主要自治体でつくる全国都市清掃会議をつくった人で、現在の廃棄物の処理体制の基礎をつくった人です。当時、し尿のくみ取りを大八車と桶、柄杓(ひしゃく)でやっていた不衛生なやり方から変えるため、メーカーと一緒に、バキュームカーの発明もしました。国の廃棄物行政にもの申し、戦後の自治体のごみ行政を牽引した人です。

その工藤さんが、自治体からの要望を受けて、通産省の化学2課長を訪ねました。化学2課はプラスチック製造業界を所管する課です。プラスチックごみは自治体にとって処理できないごみで、自治体はプラスチック製品を造っているメーカーに回収してもらいたいと思っていました。そこで、工藤さんは「炉の修繕に5,000万円もかかり、何とかやめさせてほしい」とお願いしました。ところが、課長は「たった5,000万円か。プラスチックごみを燃やしても壊れない炉を造りたまえ」。工藤さんは「自治体の苦しみをなんと思ってるんです」と反論し、課長はたじたじになったといいます。

私はかなり後になって工藤さんに会ったことがありますが、温厚で見識のある立派な方でした。結局、困った自治体が東京を起点に次々と、プラスチックごみを不燃ごみ扱いにし、埋め立て処分することになりました。すると、今度は、かさばるプラスチックごみによって、処分場の逼迫が問題になっていったのです。

現在の東京湾にある新海面処分場
現在の東京湾にある新海面処分場(画像:アフロ)

── 当時、メーカーが牛乳や清涼飲料水のガラス瓶をプラスチック容器に代える動きがあり、消費者団体や自治体が反対しましたね。

メーカーによる牛乳瓶をプラスチック容器に代える動きに対し、自治体と消費者団体が一緒になって反対し、国に認めないよう働きかけ、結局、実現しませんでした。1969年暮れに大阪万国博覧会の運営担当の博覧会協会は会場の廃プラの処理に困ると、使用を禁止しています。

プラスチックが大きな社会問題になったため、通産省(現・経済産業省)の主導で、石油化学工業協会、塩化ビニル協会の会員を構成員として日本プラスチック工業連盟も参加して、プラスチック処理促進協会(現プラスチック循環利用協会)が設立され、家庭ごみに含まれるプラスチックごみを燃やす専焼炉、溶融固化、熱分解などの技術開発に取り組み、工場などから出たプラスチックごみのリサイクル事業の育成強化に取り組み始めました。しかし、結局、独自に開発したプラスチックごみの資源化装置はできず、業界は家庭から出たプラスチックごみの処理責任は自治体にあり、自分たちにはないと主張し続けています。

── その間、プラスチック(原材料)の生産量は増え続けます。

日本プラスチック工業連盟の統計によると、1965年の約200万トンが1970年に約500万トン、1979年に約800万トン、1987年に約1,000万トン、1997年には約1,500万トンと右肩上がりで増えていきます。2000年代に入って横ばいとなり、その後は減少傾向にあります。2018年は1,067万トンでした。

── 1990年代に入って、欧州で容器包装プラスチックのリサイクルが始まります。その典型例はドイツでしたね。

拡大生産者責任の名前で、プラスチックの製品を利用している業者に回収とリサイクルを義務づける法律ができ、実施されました。ドイツでは、業界がDSDシステム(DSDという組織に事業者がグリューネ・プンクトというマークの使用料を払い、そのお金でリサイクル業者が回収とリサイクル、処分を行う)をつくり、フランスではエコ・アンバラージュ(自治体が容器を回収し、業界でつくった同社が自治体に費用を払い、リサイクルと処分は自ら行う。日本が倣った仕組み)で対応するようになりました。

プラスチックの資源化や処理技術の障害になっているのは、様々な添加物の相違を含めて2,000の種にものぼるというプラスチックの種類の多さです。実は日本のプラスチック製造技術はすべて欧米から導入した技術に頼ってきたのです。

リサイクルの先頭を走っていたドイツでは、世界的に有名な化学メーカーのBASFが、1990年当時プラスチックごみのリサイクルについてこんな評価をしています。

  • プラスチックごみは捨てるには惜しい原料であり、塩化ビニル等塩素系プラを除けば、石炭や原油に相当する資源である。
  • 一般廃棄物のプラスチックごみは汚れたり、品質が悪かったり、経済的に引き合わない場合が多い。
  • 新しい製品に溶融したり成形したりするのは部分的解決である。
  • ガラス瓶は溶融して何回も再生できるが、プラスチックは品質劣化を起こし、何回も繰り返し使えない

── というものです。

村田さん
「プラスチックの材料リサイクルは何回か繰り返し使うと劣化してしまうのが課題です」と村田さん(杉本裕明撮影 転載禁止)

── BASFは実際にリサイクルに取り組んだのですか?

熱分解してナフサに戻すケミカルリサイクル(廃プラスチックを化学的に分解して化学製品の原料として再利用すること)技術開発を進め、1994年に造ったパイロットプラント(能力・年間15,000トン)で実証し、年30万トンのプラスチックごみをリサイクルする寸前までいきました。ところが、96年にコスト面での課題から中止してしまいました。実は、ちょうどその頃に、ドイツのブレーメン製鉄所が高炉還元剤(製鉄で必要な化学反応を起こす物質)として利用する手法の開発に成功しました。こちらは現在ある装置をわずかに改良するだけですみ、コストが安くてすみます。これにはケミカルリサイクルで太刀打ちできないと、BASFは断念してしまったのです。惜しいことです。

── その後の容器包装のリサイクルを見ると、ドイツではマテリアルリサイクル(廃プラスチックをプラスチック製品の原料として再利用すること)が優先されているので、ケミカルは盛んではありません。日本でもケミカルリサイクルより、マテリアルリサイクルの割合が高いですね。

私は、マテリアルリサイクルよりもケミカルリサイクルを推奨しています。マテリアルリサイクルで再生品を造っても1、2回繰り返して使うと劣化して、結局廃棄物になってしまいます。しかし、ケミカルリサイクルはそうではありません。

日本ではJFEスチールや神戸製鋼が微粉炭の一部をプラスチックごみに代えて高炉還元剤として使っています。JFEは、フィルム類は破砕した後、センサーを通して比重の重い塩化ビニルやPETなどの樹脂と、軽いポリオレフィン系の樹脂に分け、比重の軽い樹脂を回収し、造粒しています。固形・ボトル類は破砕してから受け入れ、高炉に投入しています。塩化ビニルが含まれると困るので、塩ビの除去装置を設置しています。日本製鉄は「コークス炉化学原料化法」といわれるもので、高炉の前工程のコークス炉内に、粉砕して25ミリ径の粒状物にしたプラスチックを投入します。プラスチックは燃焼することなく、熱分解し、油化したものはタールや軽油として回収し、化成工場で製品化、ガス化したものは水素として販売し、発電にも利用できます。

── 川崎市にある昭和電工川崎工場でもケミカルリサイクルが行われています。

「アンモニア製造原料化」といわれるものです。元々宇部興産と荏原製作所が共同でプラスチックごみを使って合成ガスを製造する技術を開発しました。ガス化した後に出るスラグ(残りかす)はセメント原料に、鉄やアルミも回収するなど、ゼロ・エミッションの実現です。合成ガスは化学原料用ガスとして使うことができます。しかし、宇部興産はプラスチックごみを集めることができず、2010年に閉鎖されてしまいました。しかし、その技術は昭和電工に導入されて、川崎工場でアンモニアの原料に使われているのです。

廃プラスチックからアンモニアを製造する工場
昭和電工の川崎事業所では、廃プラスチックからアンモニアを製造している(杉本裕明撮影 転載禁止)

── 最近は、製造した水素を近くにあるホテルに供給し、燃料電池で発電したり、熱供給に利用したりしていますね。一方で、中国に輸出されていたプラスチックごみが、2018年からの中国政府による輸入禁止措置によって行き場がなくなっています。輸出業者は東南アジア諸国に振り替えたりしていますが、同様に輸入規制が行われたりし、年間50万トンのプラスチックごみが日本国内に溜まり続けています。容器包装リサイクル法のもとでケミカルリサイクルを行っている業者は大量に受け入れることが可能なのではありませんか。

僕もそれは可能ではあると思います。ただ、容器包装リサイクル法のルートで自治体が集めたプラスチックごみを製鉄所などが受け入れた当時は不況で、製鉄業界は新規事業を探していた時期でした。新規投資して設備を造って数十万トンの容器包装を受け入れましたが、その後は不況を脱出し、容器包装への関心が薄らぎました。新たに大量のプラスチックごみを受け入れるとなると、新たな設備投資が必要になります。それに定期的にプラスチックごみを確保することが求められます。業者にとっては、困った時だけの一過性の受け入れと処理では困るわけです。

川崎キングスカイフロント東急REIホテル
昭和電工川崎事業所で廃プラから製造した水素は、川崎市内の川崎キングスカイフロント東急REIホテルに供給され、燃料電池で発電。ホテルに電気と温水を供給している(杉本裕明撮影 転載禁止)

── なるほど。ところで村田さんは、ずっと前から塩化ビニルを批判してきました。

実はそれが資源化の大きな阻害要因になっているのです。塩ビが含まれた廃棄物を焼却すると、塩化水素やダイオキシンが発生し、焼却燃焼回収の障害を起こします。塩化水素は炉を腐食させ、最も嫌われているものです。障害になるのは、焼却炉だけではありません。例えばプラスチックごみを固めた固形燃料(RPF)は、製紙工場のボイラーに燃料として供給されていますが、塩素の含有量は厳しい基準が設定され、固形燃料を造る業者はプラスチックごみから塩ビを取り除いています。先ほど紹介した製鉄所や化学プラントも同様です。セメント工場も塩素を嫌っています。

実は塩ビは化学工業の歴史と深くかかわっています。水俣病を発生させたことで知られるチッソはアセトアルデヒドを造る際に有機水銀を発生させ、それを海に垂れ流し、甚大な被害を与えました。そのアルデヒドは塩化ビニルの可塑剤の原料だったのです。塩ビはもともと石炭化学から始まりました。石炭と生石灰からアセチレンガスをつくり、塩化水素と反応させると塩ビができます。これが国内最初の塩ビです。その後、石油化学に替わると、ソーダ工業(塩を原料に化学薬品を製造する工業)に不可欠なものとなりました。結論からいうと、様々な石油化学製品をつくる過程で塩素が発生し、事業者はその処理に困ったのです。昔は海洋投棄したりしていたのですが、それもできなくなりました。

村田さん
「リサイクルがなかなか進展しないのは塩化ビニルが原因。この問題を解決するとぐんと進むんですが」と話す村田さん(杉本裕明撮影 転載禁止)

── 塩化ビニルはあらゆるところで使われていますね。

投棄できずどうするかとなり、塩素を使って造る塩ビが選択されました。だから塩ビは最も安いプラスチックと言われています。日本は世界第3位の生産量です。もちろん、必要な塩ビ製品もありますが、明らかに不必要で、資源化の障害になっているものもたくさんあります。例えばラップがあげられます。塩ビの代替のラップがあるのに、塩ビでラップを造る必要はありません。それが、リサイクルを妨げているのですから。

村田 徳治(むらた とくじ)

横浜国立大学工学部卒。化学メーカーなどをへて、1975年に循環資源研究所を設立。政府や自治体の審議会の委員もつとめ、化学物質の安全管理、プラスチックリサイクルなど、多方面で提言を続けている。専門書のほか、一般書の「廃棄物のやさしい化学」(日報ビジネス)は3巻まで出てロングセラーを続ける。

  • 文・取材杉本裕明

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