10歳少年の夢は「ホームラン打つこと」立ちはだかる''障がい'' への周囲の無理解
車いすで生活する子どものためのスポーツクラブが、札幌市にある。活動を始めて3年目。2021年のクラブの目標は、親元を離れて東京に遠征することだ。日常生活を送るだけでも不便だらけの子どもたちにとって、飛行機で移動し、宿泊するなど、経験のないことばかりになる。とりわけ、中高生が主体のチームでただひとりの小学5年生・野津勇樹君(10)の心は、東京遠征への期待と母親と離れることへの不安でいっぱいになっていた。車いすでの初めての冒険は、果たしてどうなるか。障がい者スポーツ最大のイベントである東京2020パラリンピックが終わったいま、勇樹君の挑戦を通じて障がいのある子どもたちの未来を考える。
車いすの子どもたちにスポーツの環境を
スポーツクラブ「Hokkaido Adaptive Sports」が誕生したのは、2019年3月。「障がい者のスポーツ」を意味する「adaptive」をその名に冠する通り、「北海道に障がい者スポーツの拠点つくる」のが設立の目的だ。代表の齊藤雄大さん(32)は学生時代から車椅子ソフトボールにかかわり、日本車椅子ソフトボール協会の理事や日本代表監督を勤めてきた。その経験を通じ、車いすで生活する子どもたちが伸び伸びとスポーツをする環境がないことに問題意識を持ち、環境づくりに強い使命感を抱いてきた。
スポーツ庁の2020年の調査では、障がい者で週1日以上スポーツを楽しむ人の割合は成人で24.9%、7〜19歳で27.9%。障がいのない成人の59.9%と比べると、明らかに低い状況にある。齋藤さんによると、障がいの中でも下肢の障がいにより車いすで生活している子どもたちとなると、その割合はさらに低くなるという。
「車いすが漕げないので子どもたちは公園のグラウンドでは遊べないですし、スポーツをするための競技用車いすは値段が高いので道具の確保にも課題がある。また、子どもたちに聞いてみると『危ないから』とか、『責任が取れないから』とかいう理由で、ほとんどのことはやらせてもらえないと。学校の先生と常に一緒だとか、親にこの時間は来てもらわないといけないとか、そういうことが当たり前で、いつもそういう環境だったと」
齋藤さんは、クラブ設立を前に障がい者スポーツの先進国であるアメリカに1年間留学し、その運営方法を学んだ。帰国後、専門学校の教員をしながら非営利法人としてクラブをスタート。設立にかけた費用はゼロ円で、齋藤さんや参加しているスタッフは基本的にボランティアだ。体育館の使用料や遠征費などの経費は参加者の会費でまかなっているが、子どもたちの移動に使う10人乗りの車は齊藤さんが自腹で購入した。
21年夏の東京2020パラリンピックでは、車いすに乗ったり、義手や義足をつけたりした世界の選手たちの活躍が大きな注目を集めた。障がいのある大人のためのスポーツ環境は改善してきたが、子どもたちに対してはまだまだ後れているというのが齋藤さんの実感だ。齊藤さんのクラブもスポーツ庁や札幌市から、障がいのある子どもたちのスポーツ環境づくりに関わる事業委託を受けてきたが、来年度以降も継続されるかどうかは白紙だという。
「パラリンピックが決まってから、アスリート雇用は増えたし、道具のサポートや障がい者スポーツの大会も増えた。それまでと比較して社会は大きく変わったと思います。しかし、障がいのある子どもたちはほとんど恩恵を受けてきていないのが実情です」
こうした子どもたちが参加できるような地域のスポーツクラブは、日本には極めて数が少ない。まずは活動の場をつくらなければというのが、「Hokkaido Adaptive Sports」に託す齋藤さんの思いだ。
「障がいのある子どもたちは、いろいろなことを経験していないんです。子どもたちがやりたいのに環境がないのであれば、大人や社会に責任がある。環境さえあれば彼らはできるよというのを証明してあげたい」
車椅子ソフトにのめり込む野球少年
勇樹君は、クラブができた時からのメンバーだ。「ものすごく楽しそうにスポーツをする姿がとても印象的で、明るくてアスリートタイプ」と齊藤さん。
母親の美紀さんによると、勇樹君には「二分脊椎」という障がいがある。「脊髄ができあがっていない状態で生まれてきて、歩くことはできるのですが、必ず装具が必要で、長距離を移動するときには車いすに乗る生活をしています」
勇樹君は大の野球好きで、小さい頃から北海道日本ハムファイターズの大ファンだ。野球をやりたいのに、一体どうすればいいのかと悩んでいた時に出会ったのが齊藤さんだ。それからは、車いすソフトボールにすっかりのめり込んでいる。
クラブでは元気に振る舞う勇樹君だが、1年前には深い苦しみの中にいた。それまで普通級の学校に通っていたが、学校に行くことができなくなっていたのだ。どうして不登校になったのか。
「靴を履き替えるのもすごく時間がかかって、みんなに置いていかれることも多かったので、いろんな意味で自分がついていくのがすごく必死だったと思います。一時期は本当に何も自信がなくて、全然楽しくなさそうな感じの時期もあった」と美紀さんは振り返る。「なんで自分だけいろんなことができないんだ」と、勇樹君が家で涙する日が続いたという。21年6月、養護学校へ転校することを決めた。
そんな時に齊藤さんから勧められたのが、クラブに参加する子どもたちで結成されたチーム「U25」と一緒に東京に遠征することだった。高校生と中学生が主なメンバーで、男女合わせて10人。勇樹君はチーム最年少で、ただひとりの小学生だ。親と離れて飛行機で東京に行き、東京の子どもたちと車椅子バスケットボールと車椅子ソフトボールの試合をする。障がいのある子どもたちの主体のチーム同士の対戦は、日本で初めてだという。いろいろな不安はあったが、「東京に行って、同学年の車いすの子どもたちと試合がしたい」という思いが膨らみ、参加することを決めた。
「お母さんに会いたい」と泣きじゃくる
親元を離れての遠征経験がないのは、小学生の勇樹君だけではない。チームのだれもが初経験だ。クラブができるまではスポーツをする環境すらなかったのだから、当然のことである。
経験の少ないチームは、東京遠征の前に北海道で2回の合宿をすることにした。1回目は札幌から車で1時間の距離にある千歳に1泊2日、2回目は車で3時間の浦河町で2泊3日の合宿だ。
「子どもたちにはたくさんの挑戦があるんです。合宿に行けばいつも助けてくれる親がいないので、身の回りのことは全部自分たちでしなければいけません。自分たちで飲む薬の管理をしなければいけないですし、トイレの問題だってある。そういう部分が、よくあるスポーツ少年団とは違うところかもしないですね」と齊藤さんは話す。
母親の美紀さんは、1人で参加する息子がやはり心配だ。「今まではずっと私が一緒に参加していたところが、今回からは1人で行くとのことなので、すごく不安を持ってるなと思います。1人で2日間、3日間とのことなので、大きな挑戦になるんだろうなと思います」
そんな美紀さんの思いをよそに、浦河へ向かう車中で勇樹君が口にしたのは母への心配だ。「いま一番心配なことがあります。自分がいなくなることでお母さんが胃が痛くならないかです」。生まれてこのかた、学校にいる時を除くほぼ全ての時間を一緒に過ごしてきた母と息子。丸一日会わないのは、お互い初めてのことなのだ。
1日目は夕方に出発して夜に浦河に到着。その日はそのまま就寝。子どもだけの大部屋で寝ていた勇樹君だったが、深夜3時過ぎに目が覚めてしまった。そのあと眠れなくなってしまい、齋藤さんの部屋で一緒に寝ることに。
2日目は朝から楽しそうに練習していた勇樹君だったが、夜になるにつれ次第に心細い顔になっていく。浦河は札幌から車で3時間。何があってもお母さんはすぐには来てくれないのだ。
明らかに元気がなくなった勇樹君は、齊藤さんの部屋に呼ばれた。「思ってることを全部言ってごらん」。齊藤さんに言葉をかけられると、我慢していた感情を抑えられずに、勇樹君は泣きじゃくった。「お母さんに会いたいです。早くに家に帰りたいです。でも合宿は続けたいです」。2泊3日の合宿への挑戦は、初めて親と離れて過ごす勇樹君には想像以上に難しいものだった。
合宿を乗り切り、東京遠征へ
思い切り涙を流した勇樹君だったが、「みんなとまだ一緒にいたい」という思いが勝り、最後まで合宿を続けた。
「将来、ホームラン打てますかね?」と聞く勇樹君に、「打てるよ。あれだけ素振りしてたら」と答える齋藤さん。勇樹君は、まずは東京遠征で3塁打を打つことを目標に決めた。
この合宿の経験が勇樹君に大きな自信を与えたことを、母親の美紀さんも感じている。「浦河合宿から帰ってきてから自分に自信がついたのか、学校でもすごい生き生きとして、自分のことをすごい楽しめているような感じがします」
齊藤さんは、東京遠征を目前にした子どもたちに、「自分で決める」ことの重要さを説く。「みんなに集中してほしいことは、自分ができることを増やすこと。今日できなかったこと、失敗したことがあっても、全然問題ないです。その時できなくても、いずれできるようになるから」
失敗を重ねながらも、少しずつ成長してきた子どもたちは、東京遠征の日を迎えた。
午前7時50分の羽田行きに乗るため、6時30分に新千歳空港に集合。前夜から雪が降り始め、北海道に冬の到来を告げていた。勇樹君は少し不安を感じつつも、浦河合宿で得た自信からか、以前のようなひ弱さは見受けられない。
齊藤さんが話す。「やったことがないからできない、やらなくてもいいんじゃないかって、なりがちなんじゃないかと思って。いやいや、中学生でもできるんだよと。勇樹のように小学生でも、親でも先生でもない人達と一緒に東京に遠征に行くことができるんだったら、ほとんどの人ができるはずなんです」
雪のため東京には1時間半遅れで到着。車椅子バスケも車椅子ソフトボールも、子どもだけのチームが対戦するのは日本で初めてだった。念願だった車椅子ソフトボールの試合で、勇樹君は8番キャッチャーで出場。「おれ絶対にヒット打ってやる」と自分に気合を入れて、勇樹君はバッターボックスへ向かった。
思い切りフルスイングしたバットは空を切り、結果は2打席とも三振。でも、「なんで自分だけできないんだ」と涙を流していた少年の姿は、もうバッターボックスにはなかった。
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監督・撮影・編集・文山田裕一郎
Web: https://news.yahoo.co.jp/expert/creators/yamadayuichiro -
プロデューサー井手麻里子
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記事監修国分高史