本当の自分なんて、ない。東洋哲学に学ぶ「自分らしさ」との新しい向き合い方
あなたは今、「自分らしさ」に悩まされていませんか。ありのままでいいんだよ、といわれても、どうしても他人の視線や社会からの評価が気になってしまい、「本当の自分」がどこにいるのか、分からずにいる人もいるのではないでしょうか。
2024年4月に発売されてから、SNS上で大きな話題となっている書籍『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』(サンクチュアリ出版)では、「自分が"ない"からこそ、最高である!」という東洋哲学の教えをもとに、新しい生き方の提案をしています。著者のしんめいPさんも、東洋哲学に救われた一人。大学を卒業後、2度の退職と離婚を経験。虚無感でいっぱいだったところ、実家の本棚にあった東洋哲学の本を読んで、生きるのがラクになったといいます。個々人が「自分らしさ」を持つことが、ことさらに求められる現代。東洋哲学は私たちにどのようなヒントを与えてくれるのでしょうか? しんめいPさんに、お話をお伺いしました。
しんめいPさん
1988年、大阪府出身。東京大学法学部卒業。大手IT企業に入社し、海外事業で世界中を飛び回るも退職。鹿児島県長島町に移住し、教育事業に従事するも退職。芸人として「R-1グランプリ」に出場するが1回戦で敗退し引退、無職に。離婚も経験した。引きこもって布団の中にいた時に東洋哲学に出合い、衝撃を受ける。その時の心情を綴ったnote「東洋哲学本50冊よんだら『本当の自分』とかどうでもよくなった話」が話題となり、2024年4月、noteを加筆・編集した『自分とか、ないから。教養としての東洋哲学』が出版される。SNS上でたちまち話題となり、2024年8月時点で累計発行部数8万8000部の人気作に。
この世界はすべて「幻」である!
── しんめいPさんはそもそもどのようにして東洋哲学に出合ったのでしょうか。
最初の出合いは、大学生の時です。自分ってなんだろう?っていうモヤモヤを晴らすために、当時いろいろな哲学書を購入して読んでいました。もちろん西洋の哲学書も読んだのですが、いまいち気持ちが晴れなくて。デカルトの「我思うゆえに我あり」とかも、「私が思っているから私がいる......だからなんだ?」みたいな。あまり実生活と哲学が結びついている気がしなくて、さらに自分の悩みがこじれていきそうに感じていました。一方の東洋哲学は、人生経験が浅い自分には内容をあまり理解できなかったんですが、本質的なことをいっているんじゃないかという予感だけしていて。もちろん西洋哲学も実生活とは関連があるでしょうし、一律に区別するのは違うものの、なんとなく東洋哲学に惹かれました。それから紆余曲折あり(笑)、実家の布団から出られない生活を送っていた時に、たまたま部屋の本棚にあった東洋哲学の本を読んだら、その内容がすごく沁みたんです。大学生の時には分からないままだったものが、少し人生経験を積んで改めて読み直してみたら、相変わらず意味はよく分からなかったけどなぜか心に響いた。出合い直したような感覚でした。
── 東洋哲学のどのような教えが、しんめいPさんに響いたのでしょうか。
古代インドの哲学者である龍樹(りゅうじゅ)によって説かれた「空」という概念があります。これは、この世のありとあらゆるものは言葉がつくり出した幻であり、本来すべてのものは、境界線がなくひとつながりになっているという考え方です。東洋哲学もいろいろな思想があるんですけど、多かれ少なかれこの「空」に近しい概念を持っています。
家にこもっていた時に最初に触れた東洋哲学の本は、鈴木大拙の『仏教の大意』でしたが、その中に「絶対相容れないものがそのまま自己同一性を持っている」というような言葉があるんです。これも「空」の概念と同様に、どんなに異質な組み合わせに見えるものも実はつながっていることを意味しています。僕も東京でバリバリ仕事をしていた時には、「俺は他の人とは違うし!」と強気でいたのですが、すべて失って実家に戻った時にその言葉がすごく実感をともなって理解できて。離婚して、無職になって、自分がこれまでアイデンティティとしてよりどころにしてきたものがなくなった時に、たしかにそこらへんに生えている草も自分も変わらないなと思ったんです。鈴木大拙が説いていることと、自分の感覚がちょうど一致したんだと思います。
── 自分も草も一緒ってすごいですね......。
そうですね。でもそうやって自分を縛りつけている概念から解放されると、新たに見えてくる世界もあります。僕の実家の近くには海があるんですけど、無職になって実家に引きこもっていた時に見た海が、今までに見たことがないくらい綺麗だったんです。東洋哲学に対してもそうですが、自分のアイデンティティが空っぽだからこそ、見えるものがあるんだなあと感じました。自分が「ない」って最高じゃん!そう思えたら、気持ちがラクになりました。
よりどころがない時代だからこそ、東洋哲学がみんなをラクにする
── 東洋哲学についてまとめた著書が、SNS上でかなり話題になりましたよね。ご自身ではこの反響をどのように捉えていますか。
社会が刻々と変化していく中で、「よりどころのなさ」がますます大きくなっているということは、今回の反響に十分に関係していると思います。
── よりどころのなさというのは、どういうことでしょうか。
少し前なら、自分の目標をしっかりと持って自己研さんして、順調にキャリアを積んでいけば安泰な暮らしを送れるといった感じに、人生の見通しを立てることができましたよね。僕が生まれたのは高度経済成長期の余韻が残る頃(1988年)ですが、自分も幼い頃から「公務員になれば食いっぱぐれることはないから!」といわれて育ってきました(笑)。でもAIの進化が著しい今は、もはやどんな職業であっても将来確実に存在するとはいえないように感じています。
そんな不安定で流動的な社会の中では、むしろ確実性なんてないほうが最高だ!という東洋哲学的なマインドを持っていた方が楽しく生きることができるんじゃないかと、個人的には思うんです。何も「よりどころ」はないんだけど、それはそれで良いじゃん?って。自分が思い描くとおりの自分でいつづけることにこだわらずに、周りの環境に身を任せ、変化していってもいい。読者もきっと東洋哲学のそういった部分に共感してくれているんじゃないかなと思います。
── 数千年前の教えが今を生きる人たちを支えている。そう考えると面白いですね。
中国の哲学者で有名な荘子が生きた春秋戦国時代とかも、本当に戦争が多かったですからね。東洋哲学自体が、よりどころのない時代に生まれたものだから、今を生きる人の心境とうまく共鳴する部分があるのかもしれません。
── 東洋哲学を学んで、しんめいPさん自身には何か変化は起きましたか?
以前よりも、動じなくなりましたね。ちょうど本を出版した直後に身内が脳出血で倒れてしまったんです。連絡を受けて病院へ車で向かう道中、もちろん不安や後悔、祈りなどさまざまな感情が渦巻いてはいたのですが、一方で「人はいつか死ぬ」という事実も心の片隅で受けいれていたんです。少し冷たく感じるかもしれないですが、避けようがないことに対してこういった冷静な視点を忘れてしまうと、無闇に自分を責め続けてしまうことになりかねません。変わらないものがひとつもないこの世の中においては、自分が絶対的に「よりどころ」にしているものも、いつか崩れて消えてしまいます。それは避けられないけど、東洋哲学を学ぶことで、自分が信じるものが崩れた時に、自分の心も一緒に崩れないよう冷静な視点に立ち帰ることはできるようになりました。
「自分らしさ」も悪じゃない。ゆらぎ続ける自分を肯定して
── 自分が「ない」状態こそ、最高。東洋哲学から得られるのはそういった気づきだと思うのですが、現代では「自分らしさ」が求められるシーンも多々ありますよね。
「自分らしさ」が大事な局面も、もちろんあると思うんです。例えば、自分の特性を完全に無視して職業を選択してしまうと、かなり精神的に辛くなってしまいますよね。先行きが不透明な中でも最善の選択肢を取るために、とりあえず自分はこういう人間だ、と決めて進まなきゃいけない時もある。だから、「自分らしさ」を完全に捨てる必要もないと思うんです。
でも逆に、自分が信じる「自分らしさ」が足枷になってしまうこともあります。例えば最近は、いろいろな性格診断が流行っていますよね。「あなたはこんな人間です」と結果の方から「自分らしさ」を提示してくれる性格診断には、これまで見せてはいけないと思っていた自分の内面が肯定される安心感や気持ちよさももちろんあると思うんです。でも診断結果にとらわれるあまり、そこからはみ出た自分の個性を受けいれられなくなってくると、逆にそれらは自分を苦しめるものになってしまう。自分が考える「自分らしさ」も結局は幻である、ということは頭の片隅に持っておけると良いのかなと思います。
── ひとつの枠組みに自分を固定しきらずに、常にゆらぎ続けるイメージを持つ。これは社会全体において大切な考え方に感じますね。
龍樹の教えに「不一不異」という言葉があるんです。「同じじゃないけど違うわけでもない」という意味なんですけど。これは現代社会にも必要な考え方かもしれません。今、これまでのカテゴリーだと正確に存在を定義できないものが実はたくさんあるよね、ということで、カテゴリーの分け方が見直されたり、新たなカテゴリーが誕生したりしています。それは、より多くの人が生きやすい社会を築くために、すごく大切なことだと思うんです。その一方で、カテゴライズしすぎることでかえって、現状のどのカテゴリーにもはまらないものが存在する余白がなくなってしまうということは、多々あるように感じています。
みんな同じではないけど、違うわけでもない。人間だけでなく、動植物も石も宇宙も、全部含めてみんながひとつながりで生きているってことを実感できる人が増えたら、対立していたもの同士がもう少し対話できるようになるのかなと思っています。東洋哲学をなるべく多くの人に知ってもらうことでそんな世界を目指せたらと、それが僕の願いです。
取材後記
いろいろな属性をもつ人が同時に存在するこの世界において、分断や対立はある意味避けられないものだと思います。"それでも"世界はつながっているんだと、東洋哲学的な視点に立ち帰ることができる人が少し増えるだけでも、この世界はもっと豊かで、寛容な場所になるのかもしれない。そして、立ち帰るだけの心の"余裕"を持つのは、分断や対立に直接参加しない「何者でもない」人たちかもしれない。取材を通して、自分が「ない」人こそが持つ新しい可能性に希望を感じました。
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写真 中村宗徳
執筆 齊藤葉(都恋堂)
編集 小野和哉