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知る、つながる、はじまる。

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困りごとを抱える子どもを療育で輝かせる。 すべての人が大切にされる社会を作りたい。

    

another life.

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障害のある人やその家族を支援する「麦の子会」理事長の北川さん。北川さんが福祉の道に人生を捧げるきっかけとなったのは、重度の自閉症を抱える一人の少年との出会いだったそうです。北川さんが実現したい世界とは。お話を伺いました。

北川 聡子(きたがわ さとこ)
社会福祉法人麦の子会理事長・総合施設長
1960年、北海道生まれ。遺愛女子高校在学中に福祉の道を志し、1983年北星学園大学で出会った仲間3人と障害のある子どもの支援施設、「麦の子学園」を立ち上げる。札幌市に、自閉症などの発達障害や知的障害の子から大人までを支援する55の事業所を1キロ圏内に設立。障害のある当事者や家族を地域全体で支える日本で唯一の「療育の村」を作りあげた。現在も社会福祉法人麦の子会理事長・総合施設長として、発達に心配のある子やその家族への支援を行う。

一人ひとりが大事にされる福祉を実現したい

北海道乙部町に生まれました。家族は小学校教員の父と主婦の母、2歳下の弟がいます。転勤族の父について、小学校は3回も転校。2回目の転校先は全校生徒が30人ほどの小さな学校です。学年に生徒は私ひとりだけで、父が先生という特殊な環境でした。父や先生、先輩たちに守られて楽しく過ごしていましたね。

地元の公立中学を経て、高校受験で函館の女子校に進学。プロテスタントのミッションスクールでした。女子校という環境だったからこそ、「女性として」ではなく、一人の人間としてどう生きるのか、またいかに社会に貢献していくのか考えることができました。男性の視線がなく、のびのびと自分らしく振る舞えたのも良かったですね。

また毎年、さまざまな領域で社会貢献している人を呼び講話を聴く機会がありました。その中で、ある障害者支援施設の創設者の方の話を聞きました。障害のある人たちの素晴らしさを熱弁する姿に、全身全霊で障害がある方や家族に向き合っていることに感激しました。そして、福祉へのものすごい情熱を感じたんです。どうせ一生働くなら、やりがいのある仕事をしたい。それが福祉だと考え、高校卒業後は福祉について学ぶため、札幌の大学に進みました。

でも、いざ入ってみると、机の上で勉強するばかりで、なんだかつまらなく感じました。福祉を仕事にするには幅広い経験や知見が必要だと思い、自分で障害児施設などに電話をかけ、見学をさせてもらうことに。東京でもどこでも、現場を駆け回っては実習をさせてもらうようになりました。

養護学校で実習したときに、「福祉として、一人ひとりが人として大事にされる」とはどういうことかを考える出来事がありました。お昼の時間、施設から通っている子が机の上に出したのは、おにぎりと漬物だけ。他の子は、何種類もおかずが入ったお母さんの手作り弁当を持ってきているのに、この違いはなんだろうと思ったんです。

私の家庭では、母がお弁当を作ってくれるのが当たり前でした。それまで私が育ってきた環境は恵まれていたのだと知るとともに、きっと彼らは私とまったく違う景色が見えてるのかもしれないと。みんな同じようにお母さんのお腹から生まれた大切な命なのに、なぜ違いが出てしまうんだろうと思ったんです。一般的な家庭で育った私の感覚として、こうした方がいいんじゃないかと思うようなことがあって。誰しもが同じになる必要はないのですが、みな平等な命なのだから、人として等しく大事にされる社会にしたいと思いました。

「お前は信じられるのか」

大学2年の時、札幌の病院で重度の知的障害を伴う自閉症を抱える少年に出会いました。男性の職員に両脇を抱えられて現れた彼は、頭にヘッドギアをつけ、目を離すと他人や自分を叩いてしまうようでした。「こんなに大変な子がいるのか」と少しうろたえましたね。

行動の激しさとは裏腹に、彼の純粋な眼差しには賢さを感じました。だからこそ、なぜ彼が自分や他人を傷つけるようになってしまったのか、知りたかった。聞いてみると、彼の生育歴の中で人を信じられなくなるきっかけがあったようでした。

でもそれは、彼の親がすべて悪いわけではないと思っていて。まわりの大人たちも、彼らとの接し方に悩んでいたのかもしれません。幼いうちに社会全体で支援する福祉の仕組みに出会えていれば、彼や彼の家族も救えたんじゃないかと思ったんです。

彼とは、ほとんど言葉は交わしていません。ただ彼の目をじっと見ていたら、「お前は信じられるのか」と問われている気がして。ドキッとしました。お前は、信じるに値する大人なのか、と。彼に恥じないように生きなければいけないと思いました。そして、彼のような子どもの内側にある素晴らしさが表に出るよう、幼少期から支えていきたいと彼の前で誓いました。

さまざまな福祉の現場を駆け回り、実際に困りごとを抱える人たちと交流する中で、障害や発達に問題のある子どもにとって、幼少期にきちんとした福祉に出会うことが大切なんだと確信を持ちました。そして悩んだ時は、現場で子どもたちとやり取りをすることで答えが見えると実感しました。

障害や発達に心配を抱えた子どもたちに、個々の発達の状態や障害特性にあった支援、つまり「療育」ができる場を作りたい。そう思い、大学4年の時に仲間3人と一緒に、札幌の教会を借りて、子どもたちが数人通える小さな通園施設をスタートしました。

しかし、将来への見通しもなにもない私たちを信用をしてくれるほど、社会は甘くありませんでした。もちろん、賛同して力を貸してくれる方もいました。それでも、経済的にも困窮を極め、余裕がなくなる中で、一緒に始めた仲間も1人、また1人と去っていきました。

私たちは知識もスキルもお金もないけれど、よい社会に変えたいという思いは人一倍あった。心のどこかでなんとかなると思っていたのですが、現実は違いました。

すべては自分たちが始めたこと。言い訳もできないし、逃げ場もありません。もしかしたら、始めないほうがよかったのかもしれない。先が見えない不安に襲われる毎日の中で、そんなことを考えた日もありました。

でもそんな時に脳裏によぎったのは、施設で出会ったあの少年の「お前は信じられるのか」という鋭くまっすぐな眼差しでした。私自身の覚悟を試されているような気がしました。どんなに社会にとって有益で意味があることだとしても、世間に認めてもらうには力をつけなければならない。そう考えて、施設の運営を続けることにしました。

子どもをケアするためには、まずはその親から

施設を始めて数年経ったある日、テレビで「親に心の傷やトラウマがあると、その人の生き方や子育てにまで影響を及ぼす」と専門家が語っているのを聞きました。幼い頃に機能不全家庭で育ったとか、虐待によってトラウマを抱えているとか、そういったことが子育てに大いに影響を与えるのだと。

ちょうどその頃、麦の子会でも障害のある子を持つ親御さんたちから相談を受ける中で、自分の子どもを可愛いと思えないとか、子どもの存在を受け入れられない、という悩みを聞いていました。子どもの障害を受容する以前に、親子間の愛着関係に問題があるようでした。

障害や発達に心配を抱える子どもたちがどうしたら育つのか、また親自身をどうケアできるのか、ずっと考えていましたが、やっと答えが出たような気がしました。幼い頃のトラウマを癒やしてあげないまま大人になると、それが親自身の価値観になる。そんな中で、「障害児の親」というレッテルを貼られ、持たなくて良い罪悪感を抱えながら子育てをしてしまう親たちは、我が子への愛情の注ぎ方が分からなかったのかもしれない。

子どもをケアするためには、まずはその親たち、特に子どもと接する時間の長い母親をケアして支えていく必要がある。そして、子育ては家族を支えるものでもあるんだと気づきました。

障害は治すものじゃない

トラウマを抱える母親たちをケアするには、専門性を持たなけばいけないと思い、41歳の時に大学院に通う決意をしました。幸運なことに、サンフランシスコの先進的な臨床心理学の授業を日本で受けることができたんです。仕事をしながらオンラインで講義を受け、月に1度は東京に行き、アメリカからきた先生の授業を受けていました。

大学院3年の時には、サンフランシスコでアメリカの心理支援の現場を見る機会もありました。現地で障害のある子どもの支援施設を訪問した時、車椅子に乗ったベスという名の少女に出会いました。

ベスは私に、「療育を受けるたびに自尊心が下がった」と語りました。「障害を治そう」とする発想自体が、人としての尊厳を否定するものだと言うんです。それを聞いて、私は大きな勘違いをしていたのだと気がつきました。私たちが行っていた療育は、障害をなんとか良い方向に持っていこうとするもので、「これが子どもたちのためになっているんだ」と思っていたんです。

大切なのは、障害のある子どものありのままの姿を受け入れること。療育とは、「治す」のではなく、子どもの生活が少しでも暮らしやすくなるためにあるのだと教えられました。彼女の言葉を聞いて、支援者として、子どもたちや障害そのものへの向き合い方を学びました。

他にも、路上生活者など社会的に弱い立場にいる人々が、回復して社会に戻っていく過程を見ました。正しい型に当てはめてジャッジせず、ありのままを受け入れ、社会全体で心理的ケアをしていく。すると、彼らはだんだんと生きる力を取り戻していくんです。

「こうあるべき」という固定概念にとらわれず、もっとシンプルに一人の人として尊重し大事にすればいいんだ。サンフランシスコに来て、福祉のあり方を捉え直すことができました。

困りごとを抱える人を支える

現在も、社会福祉法人麦の子会理事長・総合施設長として、障害や発達に心配のある子どもやその家族の支援、親と離れて暮らす子どもを保護する社会的養護などを行なっています。「発達支援」「相談支援」「家族支援」「地域支援」の4つを柱に、それぞれの個性に合わせた支援を行っています。また、1キロ圏内に55の事業所があり、障害者や家族を地域全体で支える、日本で唯一の「療育の村」になっています。

障害のある子やその親だけでなく、何らかの事情で不登校になってしまったり、親元を離れることになったりした子どもたちの支援にも力を入れています。私自身も養育里親として専門資格を持ち、障害のある里子と一緒に暮らしています。最近では、望まない若年妊娠によりSOSが出せず困っている女性たちへのサポートや居場所の提供も行っていて、支援内容は多岐に渡っています。

麦の子会で働く600人近い職員の中には、かつて支援していた子どもたちもいるんです。みんな不器用ながらに、優しさや責任感など、人として大切なものを身につけて大きくなってくれる。支援される側が支援する側となり、適材適所で活躍してくれているのを見るのは大きな喜びですね。

社会福祉という観点においては、様々な視点で支援を行うことが必要だと考えています。理事長として、国や自治体に働きかけて制度を整備するなど広い視点での活動ももちろん大切ですし、障害がある子どもたちの素晴らしさを世界に発信する活動もしていきたい。

とはいえ、私の原点はずっと現場です。今どんな困りごとがあって、何が課題なのか。その答えはいつも現場にあると思っています。これまで、子どもたちやその親たちとのやりとりを通して、たくさんの気づきをもらいましたから。子どもや親へのカウンセリング、現場職員のサポートなど現場に寄り添った支援もずっと大事にしたいですね。

障害や発達の問題がなくても、生きているうちに何らかの困りごとを抱える可能性は誰でもあります。生きづらさを感じて苦しんでいる人にも、みんな幸せになっていいんだよと伝えたい。一人ひとり、せっかく生まれてきた大事な命。どんな境遇にあっても、自分が大切にされる命なんだと実感してもらえるような、あたたかい社会を作りたいんです。

これからも、目の前の子どもたちや家族、困りごとを抱える人たちの一番の味方でいたい。日本には、支援を必要としている人はまだまだたくさんいます。私にできることは、何でもやっていきたいと思っています。

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