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福島・浜通りの未来のために――ラーメンを新たな名産へ、鳥藤本店・藤田社長の挑戦

Yahoo!ニュース オリジナル 特集

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写真:鳥藤提供

震災からの復興を一杯のラーメンに懸けている経営者がいる。戦後間もない時期に創業した食堂の3代目社長、目指すは喜多方・白河と並ぶ福島3大ラーメンだ。その足取りを追った。(フリーライター・伏見学/Yahoo!ニュース オリジナル特集編集部)

ラーメンを福島・浜通りエリアの名物に

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富岡町で2019年に開かれた「桜まつり」で。中央で横たわっているのが鳥藤本店の藤田大社長(写真:鳥藤提供)

「東日本大震災からの11年間、つらいことも、うれしいこともたくさんありました。一つひとつ覚えていられませんよ」

鳥藤本店の藤田大社長(52)は苦笑いしながらこう語る。

鳥藤本店は、戦後間もない1949年4月、「鳥藤食堂」として福島県双葉郡富岡町で創業した。73年に法人化し、食堂運営のほか、主に東京電力や関連会社向けの給食業務などを請け負ってきた。藤田さんは2019年4月から3代目社長を務める。

藤田さんの生まれ故郷である富岡町は桜の名所として知られる。全長2.2キロに及ぶ桜並木のトンネルが春の風物詩で、震災前には県内外から多くの観光客が訪れていた。しかし、福島第一原子力発電所の事故によって町の全域が半径20キロ圏内の警戒区域となってしまった。

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藤田さんは、とことん鶏にこだわったラーメンを目指した(写真:鳥藤提供)

震災以降は日々多忙を極めた藤田さんだが、その中で鮮明に記憶している場面がある。11年9月のことだ。

原発事故の直後から、処理作業に当たる東京電力の中継基地となっていたナショナルトレーニングセンター「Jヴィレッジ」に、プレハブ小屋の社員食堂がオープンした。その運営を鳥藤本店が任されて、迎えた初日。この日の食堂メニューは、牛丼と豚汁だった。

「食堂の入り口をくぐった瞬間、東電社員の皆さんがパッとほどけるような笑顔になりました。それまでの半年間、事務所に段ボールを敷いて寝泊まりし、きっと缶詰のようなものしか食べずに頑張ってきたわけだから......」

顔見知りの社員たちにも久しぶりに再会した。皆が口をそろえて「いやー、ありがとね」と声をかけてくれた。今にも泣き崩れそうになった藤田さんは、食堂のバックヤードに引っ込んだ。

「うれしかったですよ。やっとちゃんとした食事が提供できるんだなと」

「みんなの笑顔のために」を行動基準に掲げる鳥藤本店が、本分である「食」を通してそれを体現できたのだ。

そして今、同社はさらなる「食」のチャレンジを進めている。ラーメンを福島・浜通りエリアの名物にしようとしているのだ。既に16年から「浜鶏(はまど~り)」という名称でラーメン店を展開。新たな名産によって外から人を呼び込み、地域を元気にしたいと藤田さんは意気込む。

喜多方、白河と並ぶ「福島3大ラーメン」 を目指して

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現在の看板商品である「浜鶏ラーメン」。鶏ガラスープに鶏チャーシュー、卵と、鶏にこだわった一品。青ネギと白ネギの食感の違いも楽しめる。価格は税込み820円(写真:鳥藤提供)

鳥藤本店にとってラーメンとは、会社のアイデンティティーといえる商品だ。

73年前に「鳥藤食堂」を開く以前、藤田さんの父・勝夫さんは、仕入れた鶏をさばいて、鶏肉を売っていた。あるとき、鶏ガラを使ったラーメンを富岡町の伝統的な秋市「えびす講市」で販売したところ、客の行列ができ、瞬く間に地元で評判となった。この成功をきっかけに勝夫さんは食堂を始めたという経緯がある。

震災から5年が経った2016年、東電関連の事業などは立て直しつつあったものの、会社のさらなる成長に向けて、藤田さんは原点回帰を図ることにした。鶏を使ったラーメンを復活させようと考えたのである。

それは、喜多方と白河に浜通りを加えて「福島3大ラーメン」にするという藤田さんの大きな夢への一歩でもあった。ラーメンには人を惹きつける力がある。ラーメンが浜通りの新しい名産になれば、地元活性化の起爆剤になると藤田さんは考えた。

ただし、ラーメンの復活といっても、約70年前と同じレシピのものをつくるわけではなかった。

「当時出していたものは、昔ながらの典型的な醤油ラーメンでした。それはそれで古き良きラーメンなのでしょうが、時代とともにお客さんの嗜好も変わっているし、もっと鶏にこだわったラーメンをつくりたいと思いました」

鶏ガラをベースにしたスープに加え、具材となるチャーシューにも鶏を使うことに。むね肉を低温調理することで、パサつきがなくしっとりとした味わいを実現しようとした。ところが、オーブンで加熱する温度や時間を変えて繰り返し試したものの、一筋縄ではいかなかった。藤田さんも何度も試食しては意見を出したが、どうしても満足のいく仕上がりにはならない。

そのうちに富岡町の複合商業施設「さくらモールとみおか」のオープン日が迫ってきた。鳥藤本店の新業態となるラーメン店「浜鶏」は、モールの開業に合わせた出店が決まっていたため、藤田さんはチャーシューをはじめとした鶏の具材づくりを断念。豚チャーシューを使用したラーメンで16年11月のオープン初日を迎えた。

藤田さんが理想とするラーメンにはまだ行き着かなかったものの、商売は繁盛した。当時は原発事故に伴う除染や建物解体の真っただ中で、双葉郡では作業員が数多く働いていたため、お昼どきになると客がなだれ込んできた。地元の人たちも「ラーメンが食べられてうれしい」と口々に喜びを伝えた。浜鶏ラーメンは飛ぶように売れ、昼間だけの営業にもかかわらず、多い日には150人以上の来客があった。

一方で、藤田さんはラーメンの改良を諦めていなかった。並行して商品開発を進め、鶏チャーシューだけでなく、圧力鍋で軟らかく煮込んだ鶏のもも肉や、その煮汁に漬け込んだ卵といった具材を用意した。スープの邪魔にならないよう、もも肉の味付けを和風にするなどの工夫も凝らした。

1年ほど改良を重ね、ラーメン全体の味のバランスを整えていった。藤田さんが目指したのは、鶏鍋の締めに食べる雑炊の味わいだ。

「鶏を使った鍋の最後に雑炊を食べますよね。唇にペタペタくっつくような、鶏のあのうまみ。最高においしいですよね。ああいう味にしたいというイメージはありました」

こうして完成した新しい浜鶏ラーメンを引っ提げ、18年1月には店舗もリニューアルオープンした。「看板のデザインも、スタッフのTシャツもすべて変えました。それまでとはまるで違うラーメンになりましたから」と藤田さんは言う。

実は、福島の地鶏も検討し、県内の特産品である「川俣シャモ」の関連団体に相談したこともあった。生産量が少ないことや原料コストなどの課題もあって見送ったが、藤田さんはいつかは地鶏を使ったラーメンをつくりたいという思いを持ち続けている。

小学生の心意気に号泣

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藤田さんを取材した内容を発表する子どもたち(写真:鳥藤提供)

生まれ変わった浜鶏ラーメンは地元の人たちに好評で、藤田さんも「おいしくなったね」と幾度も声をかけられた。しかしながら、原発の廃炉作業が進むにつれ、常連客だった作業員は減少。売り上げも下降線をたどり、現在はピーク時と比べて半分ほどだ。

藤田さんは、地域外に向けてもラーメンを販売しようと、お土産用の袋入りラーメン商品を開発。2018年に富岡町やいわき市などで発売し、翌年からはインターネット販売も開始した。「JR東日本おみやげグランプリ」食品部門で銀賞に輝くなど、袋入りラーメンは年間2万食ほど売れている。

18年には、藤田さんにとって転機となるもう一つの出来事も起きた。地元・富岡町の小学生との出会いだ。

震災以降、双葉郡の学校では「ふるさと創造学」という地域をテーマにした学習活動に取り組んでおり、その一環で、同年3月にさくらモールとみおかの店舗に3人の小学5年生がやって来た。目的は藤田さんへのインタビュー取材である。

当時の藤田さんのマスコミ嫌いは相当なものだったという。震災関連の取材を幾度も受けてきたが、ある一部分だけを切り取って報じられることに腹が立っていた。どんなに有名なリポーターが東京から来ても動じることはなかったが、相手が地元の小学生ということで緊張感は最高潮に達した。

下手なことは言えない。真摯に向き合う覚悟で臨んだ当日。冒頭からガツンと打ちのめされた。

「僕たちは、5年後、10年後に、富岡の町の役に立ちたいと思っています。復興の状況を自分たちの言葉できちんと話ができるように、今日は町の様子を見に来ました。よろしくお願いします」

この挨拶に藤田さんは号泣した。

「どうやってこの町を復興していくべきか、自分なりにできることを頑張ってきたつもりでした。そうしたなかでわかったのは、地域には見えないバトンがあることです。先輩から後輩が見えないバトンを受け継ぐ。ただし、震災でみんなが避難したため、受け継ぐ相手もいません。だから、自分はここにあるバトンを勝手に持って走ろう。走れるところまで行ったら、ポトッとそこに置いていこうと考えていました。そうしたら小学生が富岡町の役に立ちたいと言ってくれて、大号泣でしゃべれなくなりました。ラーメンをやったことでバトンがつながるきっかけができたんだなと」

地域のため、次の世代のためにと、袋入りラーメンの売り上げの一部を浜通りエリアの復興のために寄付している。また、コロナ禍では富岡町の小中学校で、子どもたちに自ら「ラーメン給食」を振る舞っている。こうした形でも藤田さんは後輩たちに背中を見せている。

東電で働く人に罪はない

目下、コロナの影響で業績は厳しいが、震災前からの主力事業である東電関連の仕事も続いている。原発事故は藤田さんをはじめ、地元で生きる人たちの人生を変えてしまった。強制的に避難を余儀なくされ、その後、戻ってこられない鳥藤本店の社員も少なくない。

「基本的な思いとしては、今でも東電という会社の体質には疑問がありますが、働いている人に罪はないし、我々もそれによって生活が成り立っていました。30年後の廃炉を見届けるまでは、食事やサービスなどの面で、働く人たちが少しでもいい環境にあるように頑張らないといけないと思っています」

長い年月の中で、藤田さんは多くの東電社員と親交を深めた。原発事故の収束に向けて指揮をとり、「フクシマ50」と呼ばれる数十人の作業員とともに危険な事故現場で対応に当たった、故・吉田昌郎元所長もその一人。実は震災の前日も会っていた。

「吉田所長を含め8人くらいで会合がありました。そのときに原子力の技術者に関する話で盛り上がったのをよく覚えています。所長が、この配管があっちにつながっていて、こっちから出てくるんだとか、目をつむっても構造が全部浮かぶようでなきゃ駄目なんだよと言っていましたね」

その 2日後、原発が水素爆発したとき、当然あの中に吉田所長たちがいることも藤田さんはわかっていた。「今ごろあの人たちが頑張ってくれているんだな」と顔が浮かんだそうだ。

震災は、つらい別れもあったが、新たな縁も生んだ。

「震災がなければ出会えなかった人たちがたくさんいます。彼ら、彼女らにいろいろなことを教えてもらったり、助けてもらったりしました。それが本当にありがたい」

震災から11年が過ぎたが、会社を存続させるため、そして地域を盛り上げるために、これからもどんどんチャレンジはする。昨年には、いわき市小名浜にある観光物産施設「いわき・ら・ら・ミュウ」に浜鶏2号店をオープン。コロナ禍が落ち着いたら、いわき市内でラーメンフェスを開きたいという構想も明かす。

そんな藤田さんが大事にしている言葉がある。父・勝夫さんから贈られた「挑戦なくして、喜びも感激もなし」という言葉だ。

「高校のときに、これが書かれた色紙を父からもらいました。喜びも感激も、どちらもプラスの表現。それが気に入って、ずっと部屋の壁に貼っていました。そのおかげもあって、チャレンジングな人になれたと思っています」

父が残した鳥藤本店、そして生まれ育った富岡町というバトンを未来につなぐため、藤田さんはまだまだ全力疾走をやめる気はない。

元記事は こちら

伏見学(ふしみ・まなぶ)

1979年生まれ。神奈川県出身。専門テーマは「地方創生」「働き方/生き方」。慶應義塾大学環境情報学部卒業、同大学院政策・メディア研究科修了。ニュースサイト「ITmedia」を経て、社会課題解決メディア「Renews」の立ち上げに参画。

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