難民1億人時代――クラスメイトの難民たちが明かす逃避行と現在
今日6月20日は「世界難民の日」。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、世界の難民は2011年から増加を続け、2022年5月に1億人を突破した。日本でも、難民申請中の外国人の送還を可能とする改正入管難民法が今月成立するなど、「難民」を耳にする機会は増えている。では、難民とは、いったいどんな人たちなのだろうか。命懸けの逃避行、肉親との別れ、そして現在――。オランダの語学教室で学ぶクラスメイトの難民たちと向き合い、彼らの言葉に耳を傾けた。(文・写真:奥山美由紀/Yahoo!ニュース オリジナル 特集編集部/文中敬称略)
難民は「1億人」の時代に
中東やアフリカの戦争・内戦により、地理的にも歴史的にも近い欧州を目指す難民が急増。世界銀行や各国政府の統計などによると、ドイツでは実に全人口の66人に1人が難民になった。フランスは130人に1人。両国ほどではないものの、オランダも172人に1人が難民という"高受け入れ国"で、2022年には約3万5千件の難民申請が受理されている。
ただ、ドイツやフランスでは、移民・難民の排斥を求める世論も根強く、街頭での反対活動も珍しくない。オランダでも小さな街に難民収容センターの設置などで数百人単位の難民が押し寄せることが明らかになった途端、激しい反対運動が起きたこともある。
一方、日本の出入国在留管理庁によると、日本の難民認定は欧州各国などに比べると極端に少ない。2021年はわずか74人。翌2022年には202人と過去最多だったものの、不認定は1万人以上に達した。
オランダに住む筆者は「もっと語学に磨きをかけたい」という理由で、移民・難民向けのオランダ語学教室に通い、そこで多くのクラスメイトたちから難民の事情を聞くことになった。
「僕はイエメンからの難民なんだ」
人口約16万人のアーネム市は、オランダ東部のライン川沿いにある。移民・難民向けオランダ語教室の会場は、アーネム市では森の中に立つ赤レンガの中学校だ。オランダではこうした教室が各自治体に開設されている。
アーネム市の教室では、朝9時になると、外見も宗教も習慣も異なる生徒たちが顔をそろえ、「フードモルヘン(おはよう)」「フーハートヘット(元気)?」といったあいさつが飛び交う。ここで学ぶ筆者も含め、クラスメイトは20人余り。20~50代と年齢には幅があり、「ヒジャブ」で髪を隠したイスラム女性も多い。
アマールはいつも教室の一番隅に座っていた。照れたような笑みで話しかけやすい。聞くと、10人きょうだいの末っ子で、自分は34歳だという。
ある時、アマールはこう打ち明けた。
「イエメンから難民としてここに来たんだ」
「え? 難民? イエメン?」
イエメンについて知る人は、そう多くないだろう。中東の最貧国、内戦くらいしか思い浮かばないかもしれない。アマールはそんな国からの戦争難民で、オランダに来て5年になる。
アマールが語る「惨状」 ゴムボートで闇の中を海へ
4月のある午後。レンガ造りの5階建てアパートを訪ねた。1960年代に数多く建設された、オランダではよくある建物だ。その最上階にアマールは妻と2人で住んでいる。
「これを見て」とアマールがスマートフォンを差し出した。画面の中はイエメン時代の動画。2015年に始まった内戦のものだという。破壊された家屋の前で、怯えた男性が何かを絶叫している。
「隣の家が爆撃されたんだ。自分も左足をけがして。今も傷跡が残っている。けがが治ったら、もうイエメンを出て欧州を目指そう、と。2018年だ。その頃にはSNSでの政府批判も危険になっていたんだ」
アマールが住んでいたのは、首都サヌアだ。城壁に囲まれた旧市街は世界遺産に登録されている。ところが、内戦の影響はこの旧市街にも及び、多くの歴史的建造物が破壊された。言論の自由どころか、命も危ない。国際機関は「世界最悪の人道危機」と伝えていた。
婚約者には後で必ず呼び寄せると約束し、アマールは政府軍の厳しい検問をくぐり抜け、地方空港に着き、どうにかエジプトのカイロに飛んだ。この時点でアマールは違法出国だ。
「次に向かったのは、アフリカ西岸のモーリタニア。当時は、違法移民の移動に寛容だと言われていた。同じような境遇の人が5人いて、そこで密出国を手助けする人に5人が1500ドルずつ払い、道すらないサハラ砂漠を走り続けたんだ」
車はひたすら砂漠を北上した。1週間の移動は3千キロ以上。ようやくアルジェリアに着いたが、今度は徒歩でモロッコを目指さなければならない。夜間に道すらない険しい山を進む。見つかると、命の保証はない。スマホの明かりも厳禁。夜中、絶望して「もう歩けない、俺をここに置いていってくれ」と細い声を絞り出す仲間もいた。
「モロッコで3カ月潜伏した後、ゴムボートで闇の中を海へ出た。(手引きされた)ほかの難民も一緒。70人くらい。ところが、洋上でエンジンが停止。海を漂い、死を覚悟した男が祈り始めたんだ。遺言みたいに」
その時の動画もアマールのスマホに保存されていた。赤十字に助けられ、スペイン南岸に上陸したときは、安堵で立ち上がれなかったという。
戦火の街は人として生きていける場所ではない
「バスでマドリードを経てオランダに到着した時、イエメンを脱出してから5カ月が過ぎていた。オランダで難民登録してもらった」
そう語るアマールの部屋からは、小さな運河が見下ろせた。オランダではありふれた、のどかな風景だ。テレビの横にはイエメンの伝統建築の模型。母国では、この模型のような建物が次々と攻撃対象になった。
「最初の頃はタクシー運転手をやっていたけれど、今はオランダ語の国家試験に受かることを最優先させ、勉強に集中している。この国はふるさとのよう。もちろん、イエメンの家族も恋しい。どうしてこうなったのかと、悲しい気持ちになることもある」
そこまで語ったアマールは「でも」と続けた。
「たとえ生まれ変わっても、再び死の危険を冒すことになっても、自分はあのイエメンから逃れると思う」
戦火の街は人が人として生きていく場所ではないからだ。
シリアから来たフェリアル 内戦の砲弾をかいくぐって
46歳のフェリアルは、シリア北東部、トルコとの国境に近い街で生まれた。13人きょうだいの7番目だという。「国家を持たない世界最大の民族」と言われるクルド人の女性だ。難民になる前はシリアで10代の生徒たちにフランス文学を教えていたという。「でもオランダ語を学んだらフランス語は忘れちゃった」と笑う。
彼女の自宅で、じっくり話を聞いた。教室での笑顔からは想像できない体験が次々と語られていく。
「国を捨てようと思ったのは2016年の末なの」
イスラム圏に広がった民主化運動「アラブの春」がシリアにも波及。独裁的な政権の打倒を求める動きが内戦となり、無数の殺戮と破壊が始まっていた。でも、どうやって女性が内戦の砲弾をかいくぐり、欧州に逃れたのだろうか。
真冬の山、ボート......決死の国境越え
フェリアルはまず、シリアからイラクを経て、経由地であるトルコに行くことにした。そして欧州を目指すのである。当時は最も一般的な脱出ルートだった。
彼女を含む5人の脱出者は不法出入国を請け負うブローカーを雇い、雪の中を徒歩でイラク北部からトルコへ進む。ところが、銃を持ったブローカーは途中で女性たちを強姦しようとした。難を逃れたフェリアルも殴られた。揚げ句、国境まで来ると、ブローカーは「あの辺にトルコの村が見えるから」と適当なことを言って、彼女たちを山の中に置き去りにした。
「道もない雪の上に取り残されて。気を取り直して歩いても、いつの間にか元の場所に戻っている。寒くて、寒くて......。トルコ軍に見つかるから焚き火もできません」
子どもは泣きじゃくり、大人たちも声を上げずに泣いた。ようやく夜が明けたと思ったら、武装した男たちに見つかった。銃口がこちらを向く。今度は恐怖で涙が流れた。地面に伏せさせられ、個人情報も所持金も調べられた。トルコではクルド民族は迫害の対象であり、密入国がバレたら終わりだ。しかし、兵士の中にクルド人がいたようで、「クルド語や不慣れなトルコ語を話さないこと」などの警告だけで済んだという。
「その後は半年近く、トルコで不法滞在でした」
最終的にはトルコ西岸からボートでギリシャのロドス島へ向かうことになったが、フェリアルは泳げない。ボートも見るからに貧弱だ。
「沈没が怖くて。だから2500ユーロ(約37万円)も払い、しっかりしたモーター付きのボートで密航することに。......ごめんなさい、記憶がぼんやりしてて。確か、午前3時頃までボートに隠れていて......」
早朝、海に落ちそうなほど多数の難民を乗せたボートは出発した。島に上陸すると、ブローカーに頼んで偽の身分証明書を入手。今度は大型船でアテネへ向かった。
「アテネでも頼りはブローカー。ブルガリアの偽パスポートを作ってもらった。アテネからは大型トラックのコンテナに隠れて、オーストリアまで4日間。スイスを通過したことだけは覚えているんだけど......」
同じコンテナには20人ほどの不法入国者がいたという。欧州では今も、こうした不法入国者がトラック内で何人も死んだというニュースが流れる。
冬にシリアを出てから春、そして夏。長い逃避行の末にたどり着いたオランダでは、2カ月後に難民としての滞在許可が下りた。あれから5年余り。私の目の前にいるフェリアルは、そんな壮絶な経験の持ち主とは思えないほど穏やかだ。
「クルド民族には国がない。シリアでもトルコでも自由がない。でもオランダは違う。原則と法律をきちんと守る人々がいて、民主的で安全。満足な暮らしができる」
経済的な動機で自主的に国境を越える「移民」と、戦火や迫害を逃れて故国を脱出せざるを得なくなった「難民」は、性質が大きく異なる。その難民のリアルを語ってくれたフェリアルは最後、こう言った。
「でも、私は難民の特別なケースじゃないから。難民なら誰でも、それぞれ悲しい物語を持っているんだから」
一人ひとりのリアル 消えない"国家"への恐怖
アーネム市の語学教室で学ぶ生徒たちの出身国はイラク、イラン、トルコ、エチオピア、ペルー、中国などさまざまだ。戦火ではなく宗教迫害から逃れてきた人もいる。
パキスタン出身のアデルもそうだ。28歳。もともとはイスラム教の宗派だった「アフマディーヤ教」の家に生まれた。自身も敬虔な信者だが、イスラムを国教とするパキスタンでは、教義の違いなどからアフマディーヤ教は1984年に非合法化。1940年代頃から続く差別や迫害に拍車がかかった。
「モスクの建立も認められないんだ。墓地やモスクも破壊される。信者も襲撃されて......もう、パキスタンでは生きていけない」
ウクライナ出身のグリゴリーもクラスメイトだ。
彼はウクライナ戦争に伴う難民ではなく、その何年も前から移民としてオランダでドライバーの仕事をしてきた。だが、移民とはいうものの、置かれた状況は難民と変わらないかもしれない。戦時下のウクライナに戻ると、どんな目に遭うか分からないからだ。
祖父に聞かされた「ソ連によるウクライナ人虐殺」の話も頭から消えない。祖父の幼き頃の実体験だ。グリゴリー自身もチェルノブイリ原発事故やソ連崩壊後の混乱した日々を実際に経験してきた。だから、自由の国・オランダにいても"国家"への恐怖は消えない。
難民ではないから、グリゴリーは自分の意思で帰国できる。しかし、ウクライナは戦争のさなか。18~60歳の男性は徴兵されるため、帰国すれば、前線に送られるかもしれない。
「いろいろ話すのはいいけど、詳しく書かないで。僕自身やウクライナに残る母の情報がどこかに伝わると、何が起きるか分からない」
本当は国に帰りたい、ウクライナが恋しいと繰り返していたグリゴリーは、最後にそう言って、申し訳なさそうに写真撮影も拒んだ。
元記事は こちら
山形県生まれ、オランダ在住。主に戦争で生まれた日系オランダ人やフィリピン残留日本人を取材。2016年、イタリア・コルトーナの写真祭で写真集がグランプリを受賞。2019年、スイス・ルガーノで写真賞を受賞。
写真監修
リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝
本記事は、Yahoo!ニュースがユーザーと考えたい社会課題「ホットイシュー」、「#戦争の記憶」の一つです。戦後80年が迫る中、戦争当時の記録や戦争体験者の生の声に直接触れる機会は少なくなっています。しかし昨年から続くウクライナ侵攻など、現代社会においても戦争は過去のものとは言えません。こうした悲劇を繰り返さないために、戦争について知るきっかけを提供すべくコンテンツを発信していきます。