「このままじゃ事業がなくなる」危機感から手を組んだ若きリーダーたち
「これから先、どうなっちゃうんだろう?」
新型コロナウイルスの影響で、世界中の経済が滞っている今、そんな風に考えている人も多いのではないかと思います。漠然とあった将来に対する不安感が、現実的に目の前に差し迫っていると言える現在の状況。
「自分はなんのために、何を選び、何を残すのか」
そんなことを真剣に考えなくてはならないときが、今なのかもしれません──。
そんな中、今回、Gyoppy!が取り上げるのは、酒蔵と......
漁師......
一見すると、交わらなさそうなふたつの職能のおふたりです。
訪れたのは、石川県・能登町。「株式会社 奥能登食材流通機構」は、酒造と漁師、一次加工会社らが手を組み、質の高い鮮魚を最先端の技術で消費者に届けている会社です。
奥能登食材流通機構の中心的なメンバーのふたりが、「数馬酒造」の数馬嘉一郎(かずま・かいちろう)さんと、漁師団体「日の出大敷」の五代目網元・中田洋助(なかだ・ようすけ)さん。
写真左・数馬嘉一郎(かずま・かいちろう)さん
1986年生まれ。150年以上続く能登の酒蔵「数馬酒造」代表。数馬酒造は、経済産業省から「はばたく中小企業・小規模事業者300社」「地域未来牽引企業」に選出され、奥能登では初めて「ワークライフバランス企業知事表彰」を獲得した、注目の企業。
写真右・中田洋助(なかだ・ようすけ)さん
1986年生まれ。海と魚を学び続ける能登町鵜川の漁師集団「日の出大敷」の五代目網元。北里大学水産学部を卒業後、金沢の製網会社「ホクモウ」に就職。4年間勤務する。現在は若きリーダーとして網漁を指揮するほか、未来の船頭を育てるため能登町の子供に向けた取り組みも行なっている。
奥能登食材流通機構は、ふたりが主となって立ち上げたわけではなく、地域の中でもともと構想があった事業。2、30年にわたり構想を練ってきたのがふたりの父で、息子たちがその意志を受け継いだ形です。
「父世代がやりたかったことを、子どもたちが実現した」とも言えると思いますが、ふたりは、そうではないと言います。
父世代だけではなく、祖父世代、そのまた上の世代から、子どもたちのために「能登を、もっとよくするにはどうしたらいいか」を考え続けてきた結果が、今なんです。
「若い世代のために、よりよい能登を残したい」
「未来のために、選択肢を残したい」
地域の経済を回す上で欠かせないのが、世代交代。少子高齢化が進行した日本の社会において、適切に世代交代をしていくことは、地域社会を残していく上で、とても重要なことと言えます。
世代や業種を超えて、手を取り合い、進むべき未来をつくっていく姿は、まさに今、あらゆる人々に届けたいお話でした。
この記事のあらすじ
- 大人たちは「この町には未来がない」と言っていたけど、本当にそうだろうか?
- 能登の仲間たちが好きだから、能登のことが好き
- 子どもたちの選択肢から外れる町にはしたくない
今と昔では危機感が違う
── おふたりが一緒にやっている奥能登食材流通機構のことを聞かせてください。
- 数馬
- 今は主に、加工場の運営をしています。漁師さんと農家さんと水産加工業者の社長と、つまり、一次産業系の会社の出資でつくった会社です。僕らふたりは、役員なんです。
最初は流通も含めて、水産に限らず「能登のいいものを世に出したい」「まだ隠れているものを世に出していこう」という想いから始まったんです。
── なぜつくろうと思ったんでしょうか。
- 中田
- 能登町の魚は質の高さにはもともと定評がありました。でも、これまではその品質を維持したまま出荷できる機能が十分ではなかったんです。最新鋭の冷凍施設と、加工処理施設をつくることによって、その課題を解決したくて。
── なるほど。品質の高い鮮魚の流通が可能になったわけですね。やろうとなったのは、おふたりが組んでやってみようという流れだったんですか?
- 中田
- もともとは僕の親父や数馬のお父さん、今の加工場をやってる社長が、みんな仲間だったんです。能登をもっとよくしたい、という志を持ってるメンバーで。もう何十年も前から構想を練っていたんです。
だから僕らは、親父たちが2、30年前にやろうとしていたことを、やっと今できるというタイミングでやらせてもらえることになった感じですね。
── 親がやりたかったことを、子どもたちが実現したんですね。
- 中田
- そうですね。親父たちがやることもできたんでしょうけど、「世代交代だからお前、入れ」みたいな感じで、僕が入ることになりました。奥能登食材流通機構自体、漁師の収入を増やすために、魚価をあげる目的で存在している側面も大きいです。
- 数馬
- 昔は、海のもんと陸のもんで一緒にやろうとすると、すごくハードルが高かったみたいですね。もうそんなこと言っていられる状況じゃなくなったから、できるのもあるんだと思います。
── ちょうど世代交代の時期だったんですね。
- 数馬
- 前の世代と今の世代で圧倒的に違うのは危機感だと思います。昔は、僕たちも連携しなくても自社でできていたし、漁師さんもお前らの力を借りなくても成り立つわ、っていう時代だったんでしょう。でも、このままじゃ自分たちのやっている事業がなくなるっていう共通の危機感があるので、連携に関する話が早いんです。
一次産業同士とか同業種、近い業種で連携ができていないのは大都市圏に多いですよね。僕らは、一社の力じゃどうしようもないところまで来ているという危機感があるから、一緒にやろう、という話になるんだと思いますね。
この町は未来がないという大人
── おふたりはもともとお知り合いなんですか?
- 中田
- もともとは知り合いでもなんでもなくって、小中高も違う地域です。初めて会ったのは、友だちの結婚式なんですよ。それが26歳。当時の数馬は、「僕、社長です」とか言っていて。
- 数馬
- 言ってねえわ!(笑)。
── あはは(笑)。
- 中田
- お互いに、名前は聞いたことあるけど、会ったことなかったですね。たしかそのあと、『里山資本主義*1』のイベントで一緒になって。
(*1藻谷浩介の著作『里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く』。「里山」と「資本主義」を組み合わせ、お金に依存せずに社会が維持できる仕組みづくりを提唱している。地域で活動にする人にとって、バイブルとされることも多い)
- 数馬
- 洋助が、イベントのパネラーをしたんだよね。
- 中田
- 無茶振りだったんですよ。数馬酒造の嫁さんの母が、呼んだ側の中心人物で、「海と山を代表してパネラー出すから、海はお前な!」っていきなり言われて(笑)。そんときは、漁師になったばっかりだったんです。数馬と仲良くなったきっかけはそのイベントですね。
── そのときに、海と山で組んだりとか、地域を盛り上げていく方向でやったほうがいいという気持ちになったんですか?
- 数馬
- そのときのパネラーのメンバーが、「日の出大敷は~」「数馬酒造は~」って自分たちのことを中心に話すんじゃなくて、能登を主語にしゃべる人ばかりだったんです。それがすごくよかったよね。
- 中田
- ちょうどうちらが10代の頃は、能登が一番ダメなときでした。町として、いろんな数字が下がり続けて、「この町は未来がない」とみんなが言っている状態。大人がそうしちゃったんですよ。
── 大人がそうしちゃった?
- 中田
- すごく景気が悪かったときですから。公務員になるか、一流企業に行くかしか安定はない、仕事もこれからどんどん減っていくから、「外に出ろ」って言われていましたね。だからみんな、きれいに外に出ていきました。でも、大人は「なんでこの町がダメになったか」は、誰も言わない。
僕らは帰ってきた側ですから、せっかく帰ってきてそんな町だったらつまらないから、自分たちでおもしろくするしかないよねって感じでした。
そうこうしているうちに、自分に子どもが生まれて、これから育てていく立場になったときに、「うちらの商売はなくなっちゃう」という危機感が出てきました。子どもたちが漁師になりたいと言ったときに、なれるような町にしたいって思ったんです。
── 大人たちが「外に出ろ」という中で、中田さんは金沢から能登に戻ってきたわけですけど、なぜ戻ろうと思えたんでしょうか。
- 中田
- うちはそうじゃなかったから。「こんないい商売ないだろ」「漁師、楽しいぞ」っていう家だったんです。じいちゃんは漁師、父ちゃんも漁師、女の人はみんなそれを手伝っていて。「好きなことしや」とは言われていたのですが、結局、戻ってきて漁師になりました。
みんながいるから能登が好き
── 数馬さんは、能登に戻ってきた理由はありますか?
- 数馬
- うちの父親も、能登は悪く言わなかったですね。むしろ、能登が好きで。理解できんくらい好きでしたね。
── 数馬酒造は歴史の長い酒蔵だから、「当然、帰ってくるでしょ」という空気もあったのかなと想像しました。
- 数馬
- まわりはそんな感じで言ってましたね。でも僕は逆で、帰ってくる気はなかったんですよ。僕は東京の大学に行って、そのまま都内で就職しました。就職したけど、起業したかったんです。もともと継ぐ気もまったくなかったから、異業種で働いていました。
23歳頃かなあ、あるとき、飲み会で知り合った人に「夢は?」って聞かれて。「30歳で社長になることです」って言ったら、「7年間、何を待っているの?」と言われたんです。「本当だ、待つ理由ない」と思って。で、帰ったほうが経営者になる確率が高そうじゃないですか。
そうやって悩んでいる中で、働きだして1年くらいで父親から「手伝わんか」って言われたので、能登に戻ってきました。
── 今の若さで社長になっているということは、すぐに社長になったわけですよね。
- 数馬
- 戻ってきて、5カ月です。だから、みんなびっくりしてましたね(笑)。
── 出会った頃が26歳で、地域のためにやろうみたいな気持ちになったのはどうしてなんですか?
- 数馬
- 社長にはなったものの、最初はなぜやっているのか自分でもよくわからなかったんです。「なんでここで酒蔵の社長やっとるんやろ?」「なんで能登に酒蔵あるんやろ?」って深堀りしていったら、「ただ能登にいて、お酒を売るためだけに生きていくのはいややな」と思って。
だから、能登のことを大好きな父親に、「なんでそんな能登が好きなのか」って聞いたんです。そうしたら「洋助くんのことは好き?」って聞き返されて、「好き」って言ったら、「それで十分」って言われたんです。
── 信頼できる仲間がいればそれで十分なんだと。めちゃくちゃいい話ですね。
- 数馬
- それからだんだん、「数馬酒造のお酒が売れたら、経済も潤って地域もよくなっていく」ということに気づいて、どうせやるなら「それくらいの社長にならなきゃここに生まれた意味ないよな」と考えるようになって、地域に目が向きだしたんです。
一次産業の方々は、地域の経済がちゃんと回っていないと、仕事が成り立たないじゃないですか。僕は今でも、洋助(中田さん)ほどは能登が好きってわけではないんですよ。でも、洋助とか周りの仲間とか自分が好きな人たち、つまり漁師や農家と一緒にやっていくためには、能登が必要なんです。
周りの仲間が死んだら、僕は能登のこと好きじゃなくなると思いますね(笑)。
そうやっていろんな活動をしていたら、能登で魅力的な人たちがいることをどんどん知っていって、余計に好きになってきました。「この人たちが好きな能登を守れればいい」という気持ちになっていったんです。
子どもたちの選択肢から外れる町にはしたくない
── ふたりが目指すゴールというか、目標はありますか?
- 数馬
- ないです! 僕はゴールとか好きじゃないんです。窮屈なんですよね。
── 危機感の話もありましたけど、その時々にやれることをやっていくイメージですかね?
- 数馬
- 自然につながったことをやっていけばいいと思うんです。
- 中田
- 最終的に町がよくなって、子どもたちが「うちの町、いいよね」って自慢できるような町になれば、それでいいと思いますね。僕らの世代は、「自分の町、どんな町?」って聞かれて、「いい町」って答えるやつはほとんどいなかったですよ。
- 数馬
- 今の子どもたちが残りたいと思ったときに、やりたいことができるとか、子育てしやすいとか、能登にいてもよい選択肢を残しておきたいですね。あとはどこ選ぼうが自分の人生だから好きにすればいいと思います。
- 中田
- 選択肢をなくすことは、しちゃいかんと思うんですよね。地域にしろ、職業にしろ。
- 数馬
- 僕らふたりは、「能登をよくしていきたい」っていう目的が一緒なんで。それぞれの道があるけど、結果的には同じゴールになるんじゃないかなと思ってます。たまに奥能登食材流通機構のように一緒に会社をつくったりするけど、それぞれは好きにやっているだけなんですよ。
- 中田
- うちらがこうやって思えるのは、親たちが同じ想いでずっと町づくりをしてきたからというのも大きいです。親世代は、僕ら世代を育てる中で「こいつらがこれから生きていく能登が、どうやったらもっとよくなるか」ということを考え続けてきてくれたわけですよね。だからこそ、うちらふたりが能登に戻ってきたら、喜んでくれたわけだし。
だから、やっている内容は違うかもしれないけど、目指しているところは親世代と一緒だと思うんです。僕らが始めたわけじゃなくて、受け継がれて今に至っている。うちの親父も、それはじいちゃんから受け継いだんだと思います。今度は僕らが、子どもたちの世代に、何を残せるかだと思うんですよね。
さいごに
「前の世代と今の世代では、危機感が圧倒的に違う」
数馬さんはそんな風に話してくれました。
取材をさせてもらったのは2020年の頭。
そして、今。
世界中が、新型コロナウイルスにより、大きな変化の波の中にあります。
"危機感"を持つべきなのは能登だけではなく、都市や地方関係なく、日本全体であり、地球全体なのかもしれません。
都市と地方の様々な格差だったり、地球温暖化だったり......。
多くの課題が折り重なる時代だからこそ、世代や業種を超えて、協力しながら、目の前にある危機を乗り越えていくべきなんじゃないか。
そんなあるべき姿のヒントを、能登から感じられた取材でした。
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取材長谷川琢也
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文くいしん
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撮影海野政人